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祈りと元気と

昼、電車に乗って護国寺へ。来日中のダライ・ラマ法王による東日本大震災の四十九日法要に参加する。

セキュリティチェックを終えて階段を上ると、本堂の前の広い境内は、三千人もの人々でぎっしりと埋まっていた。四基の大型スクリーンに、法王のご様子が映し出される。読経の声を聞きながら、家から持ってきた数珠を手にかけ、しばらくの間、じっと手を合わせて、震災で亡くなった方々や、被災地で不自由な暮らしを余儀なくされている方々のことを想った。

僕が祈ったからといって、苦しんでいる方々が救われるわけではないけれど、自分自身の心に祈りを刻むことで、何か変わるものがあるかもしれない。こういう機会に立ち会うことができて、よかったと思う。

夕方、新宿に移動して、新宿眼科画廊で今日から始まるたかしまてつをさんの個展のオープニングパーティーに行く。たかしまさんの作品は以前からいろんな場所で何度か拝見してきたけど、今回の展示は圧巻。白い壁一面にびっしり貼られているのは、キャンバスやダンボール、手帳のページ、レシート、文庫本のカバーなど、ありとあらゆるものに描かれた絵たち。奥の小部屋には、四枚のふすまにどーんと描かれた、文字通りのふすま絵もあるのだ。

パーティーの間も壁のあちこちをずっと眺めて回っていたのだが、見ていて感じたのは、たかしまさんは本当に、骨の髄まで絵を描くことが好きな人なのだなあ、ということ。見る人に元気を与えられる絵というのはすごいと思う。

祈りと元気とで、心が少し軽くなったような気がした。

二つの居場所

朝から代々木公園へ。アースデイ東京に出展しているジュレーラダックのブースで物販を手伝う。何人ものお客さんに声をかけていただいて、ありがたいかぎり。まったく初対面の人なのに、相手は自分のことをかなりいろいろ知っているという状況には、いつまで経っても慣れないのだが(苦笑)。

お客さんの一人に、こんなことを訊かれた。

「そんなにラダックのことが好きになった後に日本に帰ってきて、嫌になってしまったりしませんでしたか?」

正直言って、全然嫌になったりしなかった。

ラダックと日本の間を行き来しはじめた頃は、何から何まで違う二つの社会のギャップに戸惑ったりもしたのだが、時間が過ぎ、ラダックのことを知れば知るほど、日本のよさも改めて感じるようになった。どちらの社会にも、いい面もあれば、悪い面もある。見境のないグローバリゼーションはもちろん支持したくはないが、さりとて懐古主義的なローカリゼーションを安易に盲信するつもりもない。要は、バランスの問題なのだと思う。

ラダックのシンプルな社会では、人と人とを互いに結びつける強い絆が、とてもわかりやすい形で存在する。でも、そうした絆は、日本にも、世界のどこにでも、何らかの形で必ず存在しているのだ。どこの国だとか、そんなことは関係ない。その絆を、大切にできる人間になれるかどうか。自分はまだまだだと思う(本当に未熟者だ‥‥)けど、少しでも納得のいく生き方をできるようになれたら、と思う。

ラダックも、日本も、どちらも僕にとっての居場所。

原発事故と差別

日本国内だけでなく、今や世界中の関心事となっている、福島第一原発の事故。事態がある程度収束するには、おそらくあと九カ月はかかるという。

今回の事故は、緊急時のバックアップ体制に大きな不備があったことは否めないが、ある意味、途方もない天災によってもたらされたものだ。だが、その一方で、どう考えても不条理な理屈によって発生している人災がある。それは、福島を中心とする被災者の方々に対する差別だ。

被災地から避難してきた子供が「放射能が伝染る」などと他の子からいじめられたとか。福島から来た人の宿泊を断っている旅館があるとか。はては、結婚が決まっていたのに、実家が福島にあるというだけで婚約を解消させられた女性がいるとか‥‥。

許せない。そんな差別をする人は、同じ人間として、絶対に許せない。

放射能に関するごく初歩的な知識も、現状を分析する判断力も持ち合わせず、根拠のない風評に惑わされて恐怖にかられている連中が、そんな愚かな行為に走っているのだと思う。だが、そういう差別をしている人は、自分自身が海外に出かけた時に、ほかの国の人から「触るな!」などと差別されることを想像してみればいい。実際、海外の国々から見れば、日本人全員が被曝してるんじゃないかと疑われているくらい、日本は小さな国なのだ。それとそっくり同じ差別を福島の被災者の方々にしているということを、その人たちは思い知るべきだ。

もう一度書く。そういう差別をする人を、同じ人間として、僕は絶対に許せない。

原発事故について思うこと

東日本大震災が発生してから、三週間が過ぎた。事故を起こした福島第一原発は、未だに予断を許さない困難な状況が続いている。それに関連して、今感じていることをつらつらと。

僕個人としては、福島第一原発の現状について、楽観も悲観もしていない。罹災直後の数日間に比べれば、東京を含む遠方のエリアまで危険な状況に陥る可能性はいくぶん低くなった。しかし、福島第一原発に近い周辺地域の住民の方々に対する安全性の担保は、十分であるとは思えない。政府は、陸上および海上の周辺地域での放射線の計測を綿密に進めて、万全の上にさらに万全を期して、住民の方々を絶対に安全な環境下に保護すべきだ。「今すぐ健康被害が及ぶものではない」などという言葉は、けっして安全宣言にはならない。政府の仕事は、国民を安心させることではなく、安全を確保するための正確な情報を提供することだ。

今回の原発事故への一連の対応や情報開示の不明瞭さという点で、東京電力に一定の非があることは間違いないし、それらに対して、専門家による冷静な分析と批判は必要だ。でも今、専門家でもない人たちが、恐怖に駆られて感情的になって、東京電力に罵詈雑言を浴びせかけることは間違っていると思う。福島第一原発では今も、何百人もの作業員の方々が被曝の恐怖と戦いながら、決死の覚悟で復旧作業を進めている。自分の代わりにそんな危険を犯して作業してくれている人たちに対して、僕は申し訳ない気持とともに応援こそすれ、罵声を浴びせる気にはなれない。

この事故をきっかけに、これから日本では「脱原発」への動きが加速していくだろう。僕もそれには賛成だけど、「今すぐ、日本の原発を全部ストップしろ!」などという後先考えないヒステリックな主張には同意できない。そんなことをしたら間違いなく、日本という国の社会と経済が破綻する。これからどういった形で原発への依存度を段階的に減らし、代替エネルギー源をどのように確保していくか。そのための具体的で実現性の高いロードマップを示すことなく、ただ闇雲に「止めろ! 止めろ!」と主張するのは、無責任だと思う。まあ、こうしたロードマップは、政府がいち早く主導して示すべきものだと思うが。

僕自身、どちらかといえば原発に対して否定的な感情を持ちつつも、その原発で生み出された電力を甘受して暮らしてきたという矛盾を抱えている。まずは少しでも早く、福島第一原発が安全な状態にまで復旧し、周辺住民の方々が安堵できる日が来ることを祈りたい。

小さな痛み

今日は四月一日、エイプリル・フール。もし、何でもいいから、何か一つの出来事を嘘にすることができるなら、三週間前に大震災があったことを嘘にしてほしい。そんな風に思った人は、きっとたくさんいるのだろうな、と思う。僕もその一人だ。

でも、震災が起こってしまった現実は、もうどうにもならない。僕たちはその結果を受け入れ、少しでも早く、被災した人々が窮状を脱し、普通の暮らしを取り戻せるように、自分にできることを一つずつやっていくしかない。

今、誰もが胸に感じている痛み。それは、被災地の人々に比べれば、何百分の一の小さな痛みでしかないのかもしれない。でも、大切なのは、その小さな痛みを忘れないこと。自分が穏やかな時間を過ごしている時も、被災地には悲しみに暮れている人がいるという事実を忘れないことだと思う。

小さな痛みを胸に抱えて、僕たちはこれからを生きていく。