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自分たちのサッカー

朝の五時に起きられる自信がなかったので、昨日の夜から徹夜して、ワールドカップの日本対コロンビアの試合を観る。グループリーグ突破のためには勝つしかない日本はリスクを冒して攻め続けたが、結局、1-4で敗れた。

今回のワールドカップに臨んだ日本代表の選手たちが揃って口にしていたのは、「自分たちのサッカー」という言葉だった。日本人特有のアジリティ(敏捷性)とテクニックを活かし、ボールも人も動かしながら攻守にわたって組織的に連動するサッカー。グループリーグを最下位で敗退という無惨な結果に終わった今、その言葉を揶揄するように使う人もいるが、個人的には、その「自分たちのサッカー」を出そうとすること自体は、間違ってなかったと思う。

ただ、ワールドカップに出場するような強豪国に対して「自分たちのサッカー」を90分間出し続けることは、相手も日本のやり方や弱点を周到に研究しているし、なかなか難しい。「自分たちのサッカー」をうまく出させてもらえない時にどうするかというアイデアの引き出しが、今の日本代表には足りなかった。

日本に先制されながら、わずか2分間で逆転に成功したコートジボワール。日本戦で退場者を出しながらもしのぎ切り、結果的にグループリーグを突破したギリシャ。先発を8人も入れ替えたために連携の精度を欠きながらも、抜け目なく隙を突いて加点していったコロンビア。どの国も日本を相手に試合を完全に支配していたわけではなかったが、要所を締め、勝負どころをきっちりとものにするしたたかさを持ち合わせていた。

自分たちと同等かそれ以上の力量を持つ相手に対して、どうやって「自分たちのサッカー」を安定した形で出し続けていくか。それをうまく出せない時は、試合の中でどう臨機応変に工夫して、しぶとく勝利をものにしていくか。そういう本当の意味での実力と勝負強さをナショナルチームが身につけるには、きっと、長い長い年月をかけての積み重ねが必要なのだろう。

でも、悲観はしていない。日本代表はこの20年ほどの間に、他の国々が驚くほど順調に力をつけ、経験を蓄えてきた。今のユース世代にも、優れた才能を持つ選手たちはたくさんいる。進むべき道は、間違っていないと思う。

誰でもよかった?

朝イチから、南大沢方面で取材。2本分の原稿を書くためのやや長めの取材だったが、どうにか乗り切る。帰りに下北沢に寄り道してカレーを食べ、吉祥寺から歩いて家へ。途中、今作っている本の初校の残りが出たというメール着信。家に着いてからは、夜までずっと、その関係のメールや電話のやりとりに追われる。急に忙しくなった。

ところで、昨日起こった、AKB48の握手会でのノコギリ男乱入事件。彼女たちアイドルやそれを取り巻くビジネス構造については正直何の興味も関心もないのだが、犯人が案の定「誰でもよかった」と供述していると聞いて、んなわけねーだろ、と思わずにいられなかった。

無差別殺傷やら何やら物騒なことをやらかす人は、後で「誰でもよかった」と言ったとしても、実は誰でもいいわけじゃない。自分より確実に弱そうな立場の人を狙って、自分の方が絶対に優位に立てる武器なり何なりを必要以上に用意している。要するに、これ以上ないくらいのチキンなのだ。ノコギリなんぞ持ち出さなければ、未成年のアイドルの子とさえまともに向き合えないくらいの。

自分の境遇とか世の中に対する逆恨みとか、いろいろ後付けの理屈はされるのかもしれないけど、とどのつまりは、チキンの憂さ晴らし。やれやれだ、ほんと。

マニュアル通りの人生なんて

午後、高田馬場で取材。結構長丁場で、内容も難しくて大変だったが、どうにかやり遂げる。終わった後、さかえ通りの洋庖丁で晩飯を食べ、東西線で三鷹に戻る。

電車の隣の席で、大学生らしき男の子が、付箋やマーカーがびっしりの本を読み耽っている。終点の三鷹に着いて客が全員降りたのも気付かないくらい、一心不乱に。最初は勉強熱心だなあと感心していたのだが、ふと横目で本のページを見ると、それは就職面接のマニュアル本だった。

うーん、どうなんだろ。人それぞれいろんな考えがあるんだろうけど‥‥。就職の面接って、マニュアル本を読み込めばクリアできるようなものなの? ありのままの自分を出して、素直に会って話をしてくれば、それでいいんじゃないかと思ってしまうのだが。

少なくとも、僕は嫌だな。ただマニュアル通りに動くだけの人生なんて。

「亀時間 鎌倉の宿から生まれるつながりの環」

「亀時間 鎌倉の宿から生まれるつながりの環」鎌倉の材木座にある古民家ゲストハウス「亀時間」。僕はまだ泊まらせてもらったことはないのだが、今までに二度、足を運んでいる。それは、この場所で年に一度開催されている「旅人バザール」というフリマイベントの時。そのうち最初の訪問では、僕自身がそのフリマの出展者という立場だった。

その時の僕は、歴史のある建物に隅々まで丁寧に手を入れて心地いい空間を作り上げたオーナーのマサさんやスタッフの方々の誠実さと、材木座の街並や人々、海や山や空など、周囲を取り巻くすべてがこの「亀時間」を作り上げているのだな、という印象を持ったのを憶えている。この素晴らしい場所に根ざし、ゆったりとした時間の中でゲストハウスを営むという生き方が、うらやましくも思えた。

このゲストハウスについての本を作りたいという話は、ずっと前に旅音さんから聞いていたのだが、企画が通るまでの紆余曲折と、制作に入ってからの苦労話もいろいろ伝え聞いていたので、それが「亀時間 鎌倉の宿から生まれるつながりの環」として一つの形になったことは、うれしかったし、ほっとした。世の中には、読まれていくべき本というものがあると思うから。

マサさんが長旅の中でムビラという生き甲斐の一つを見つけ、それを続けるための仕事と生活を自ら作り出すという発想の転換から、鎌倉でゲストハウスを開業するまでの日々と思いが、この本では「亀時間」そのもののように誠実な筆致で綴られている。特に、材木座で放置されていた古民家と運命的にめぐり会い、仲間と悪戦苦闘しながらゲストハウスを作り上げていくまでの過程が、生き生きと語られていて面白い。「亀時間」という場所が、たくさんの仲間や地元の人々に支えられながら生まれてきたことが、あらためてよくわかった。

会社員時代の安定した収入と引き換えに得たものは、地域の人々と助け合える関係と、その中で好きな仕事ができる喜び、そして家族とゆっくり過ごせる時間。マサさんが「亀時間」を通じて選び取ったその生き方は、きっと多くの人にとって何かのヒントになるんじゃないかと思う。

インド映画の邦題に思う

海外の映画が日本で公開される時につけられる邦題は、昔も今もよく議論を巻き起こしてきた。たとえば、少し前に日本で公開されていた「ゼロ・グラビティ」。僕も先日のバングラデシュ行の時に飛行機内で観たのだが、あれを観た人の多くが「原題の“Gravity”の方がふさわしいんじゃない?」という感想を持ったというのが、よくわかる気がした。

で、インド映画に関しては、英語圏の映画に比べると、こうした邦題にまつわる問題がより生じやすいのは間違いないと思う。その黒歴史の最たるものが「シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦」だった(苦笑)。去年公開された「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」や「きっと、うまくいく」も、ネットでは否定的な反応もあったが、僕としては、苦労して日本語で補った結果としてのそういったタイトルだったのかなと、ある程度納得はしている。

ただ、今年夏に日本で公開される予定の映画「English Vinglish」につけられた邦題が、「マダム・イン・ニューヨーク」というものだと聞いた時は、さすがにがくっときた。邦題なのに日本語ですらなく、何の興味も魅力も感じられないカタカナ英語のタイトルとは‥‥。「English Vinglish」は熱心なインド映画ファンの間で前評判が高く、日本での公開が熱望されていただけに、なおさらだ。この作品をろくに理解してないどこかのお偉いさんが鶴の一声でつけてしまったのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。原題をそのままカタカナで「イングリッシュ・ビングリッシュ」にしてしまった方が、よっぽどよかったのに。

邦題は、お客さんを集めるためになりふり構わず付けるものではない。その作品の魅力と価値を少しでも正確な形でお客さんに伝えるためのものだ。作品の魅力と価値をしょうもない邦題が損なってしまうようでは、何の意味もない。

こうなってくると、非常に心配なのが、「Yeh Jawaani Hai Deewani」だな‥‥(苦笑)。松岡環さんのブログでは「この青春は狂おしい」と訳されていたけど。さて、どうなることやら。