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人並みに戻る

帰国して、3週間が経過。インドにいる間に4キロ減った体重は、2キロほど回復した。

食事の方は、帰国直後のようにやたらめったら肉を食いまくる(笑)という状況よりはだいぶ落ち着いて、普通の飲み食いで十分足りるようになった。家での自重筋トレも以前より少し軽めの負荷で再開して、無理のない範囲で続けている。各部の筋力はもうひと息、以前の水準にまで近づけたいが、体重や脂肪のつき方は、「動ける」状態を維持しつつ普通に過ごすなら、今くらいがベストなのだろうとも思う。筋肉だけ、あと500グラムほど上乗せしたい感じ。

帰国直後に一度会った知人と先週また会ったのだが、「この間よりもだいぶ元に戻りましたね!」と言われた。「帰国された直後は、頰から首筋のあたりとか、肉が削げ落ちちゃってた感じで、正直かなり引きました」とも言われた(苦笑)。4キロ減という数値以上に、身体の維持に本来必要な分の脂肪や筋肉もごっそり持って行かれてた、ということなのだろう。

ともあれ、身体はだいぶ人並みに戻ってきた。来週か再来週あたり、焼肉とか食べに行きたいな。

面倒なことは、さっさと

昨日は午後から渋谷方面で、打ち合わせの予定が2件。どうせ出かけるなら朝イチで家を出て、午前中のうちに面倒なことをさっさと終わらせておくことにした。

面倒なことというのはもちろん、確定申告。1月にインドに出発する前に泣きながら準備しておいたかいがあって、帰国した後、留守の間に届いていた支払調書と帳簿を突き合わせても、数字はピタリと合っていた。なので、このまますぐに税務署に行ける、と思ったのだ。

荻窪税務署の申告会場がオープンする少し前に列に並び、第二陣くらいのタイミングで中へ。決算書類に粛々と数字を記入し、パソコン入力コーナーでも粛々とデータを入力。問題なく手続きを終え、印刷してもらった書類一式を支払調書などと一緒にまとめて投函。ふー、片付いた。

毎度のことながら、確定申告を終えた後の、何ともいえない解放感。おひるに旅人の木で食べた油そばのうまかったこと。これで、もう少しちゃんと儲かっていたらいいんだけど(苦笑)。

おんびんたれ

あけましておめでとうございます。2019年もよろしくお願いします。

年末年始は、僕の実家のある岡山と、相方の親御さんが住む神戸を渡り歩いて過ごした。僕自身、岡山に帰省するのは何年かぶりのことで、子供の頃に見ていたのとはすっかり変わってしまった風景に面食らいつつも、ほんの些細なきっかけで記憶の蓋がパカッと開くような瞬間もあった。冬枯れの田んぼ。冷たく乾いた風。川の上を低く飛ぶ白鷺。

岡山に戻って家族と会話する時は、僕の口調も岡山弁に切り替わるのだが、それでもものすごくひさしぶりに耳にする岡山弁がいくつかあった。「おんびんたれ」(臆病者という意味)とか、他の地域ではまずわかってもらえない。これまでの人生で過ごした歳月の長さで比べれば、岡山よりも東京の方が1.5倍くらい長いのだが、それでも僕という人間の根っこの部分には、岡山という土地の血脈が否応なく浸透しているのだろう。

あと、全然関係ないけど、今回の帰省で一番ビビる思いをしたのは、上の甥っ子が「このあいだなあ、グーグルで、ヤマモトタカキで調べてみたんよ」と言ってきた時(苦笑)。前にラジオに出させてもらったりした時の番組サイトの情報とかが出てきたらしい。怖い……インターネット怖い……。

先入観のリセット

昼、外苑前で、取材を受ける。テーマは、インド映画。昨今、日本でも話題に上る機会が増えたインド映画を観ることをいろんな理由で躊躇している初心者に対して、インド映画の魅力やおすすめのポイントなどを紹介してほしい、という依頼だった(その相手が僕みたいな小者でよかったのだろうか、という懸念はあるが)。

この取材の相談を受けて、まず感じたのは、インドという国とその文化について予備知識のない人に、「インド映画」という非常にざっくりしたカテゴライズに基づく説明をすることの危うさだった。インド全土で年間で1000〜2000本も制作されているインド映画は、ジャンルも言語もあまりに多種多様で、とても十把一絡げに扱うことはできないからだ。

同時に思い浮かんだのは、未だにかなり多くの日本人が、インドやアジア諸国の人々と文化に対して、実情にそぐわない断片的な情報やイメージに基づいた先入観に囚われているのではないか、ということだった。たとえば、インド映画に対して敷居が高く感じている人のうち、実際にインドの映画作品を1本通して観た経験がない人は結構多い。妙な歌と踊りばかりなのではとか、えぐいバイオレンスシーンばかりなのではとか、たいしたクオリティではないのでは、とかいう思い込みばかりが先走っている。日本人のそうした先入観には、ともすると、うっすらとした上から目線の見方がブレンドされてしまいがちだ。

だから、先入観の抜けない初心者に対してインド映画をすすめるなら、まずは「インド映画」という括りを取っ払って考えてもらうようにした方がいいのだろう。「きっと、うまくいく」など評価の定まっているいくつかの映画を、個々の作品としておすすめしてみる。それで気に入ってもらえたら、あとはその人の好みに応じてアンテナを広げてもらえばいいし、そうでなければその人の好みではなかったというだけのことだと思う。

もっと根本的に、異国とその文化に対してズレている先入観をリセットするには、日本人である自身の価値観は絶対的なものでも何でもなく、世界の中で無数にある価値観の一つに過ぎないということを自覚するしかないのだろう。価値観とは国や地域や宗教や文化、人によって相対的なもので、それぞれに理があるのだと。その事実を骨身に沁みて自覚して自分のものとするには、やっぱり、旅に出るのが一番手っ取り早いのだろうと思う。

天からの災厄

今年の日本は、大規模な自然災害が、とにかく多い。西日本の豪雨による洪水、関空を閉鎖にまで追い込んだ台風21号の暴風雨、そして今朝の北海道の震災。ヘリからの空撮で、山という山がまるで冗談のように根こそぎ崩れて土肌を晒してる写真を見て、唖然とした。

こういう自然災害のニュースを見ていると、不安になる一方で、「いや、自分たちは大丈夫だ」と根拠もなく思い込みたくなったりもする。当たり前だが、そんな保証はまったくどこにもない。いつになるか、どの程度になるかはわからないけれど、自分たちの番は必ず来る、と思っておいた方がいい。実際、その通りだろうし。

天からの災厄と、人の営みの儚さ。ほんと、次は自分たちの番、かもしれない。

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J.D.サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」読了。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンが登場する作品を中心にしたいくつかの短編と、グラース・サーガの最後の作品、7歳のシーモアが書いた長い手紙という形の中編「ハプワース16、1924年」が収録されている。サリンジャーの小説を読んだのはものすごくひさしぶり(20年ぶり?)だったのだが、その文体のみずみずしさと、繊細に組み上げられた構成の巧みさに、あらためて舌を巻いた。第二次世界大戦に従軍した時の経験が彼の心の奥に深い傷を負わせていたことも、この本で実感した。

気になったのは、訳者が「ハプワース〜」で、レスを「父さん」、ベシーを「母さん」としたという点。そこは、訳者として違和感があったとしても、原文のまま「レス」「ベシー」としてほしかった。シーモアはそのくらい、ぶっちぎりにこましゃくれた子供だったわけだし。

ともあれ、再びサリンジャーに興味が湧いてきたので、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」や「フラニーとズーイ」、柴田元幸訳の「ナイン・ストーリーズ」など、最近の新訳で読み直してみようかな、と思う。