Tag: Editing

「料理人」としての編集者

ここのところ寝不足な日が続いていたので、昨日の夜は、10時間以上も寝た。でも、いまだに頭がしゃっきりしない。脳が、乾いたスポンジみたいにぱさぱさしている感じ。

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編集という仕事は、料理人の仕事に近いところがあるような気がする。自分の目利きで選びとった食材を、腕によりをかけ、心を込めて調理して、おいしい料理を読者の方にお出しする。自分で執筆や撮影までするなら、それこそ水田に稲を植えるレベルから手がけることになるが、基本的に編集の仕事は、目利きと調理に相当するのではないかと思う。編集者がそうして腕を振るうことができるのは、いい食材を丹精込めて育ててくれる、各分野のスタッフがいてくれてこそだ。

「これでおいしい料理を作ってください!」と、野菜や肉や魚を提供してもらえるなら、そりゃあ燃える。別に高級食材とかでなくても、持てる力を振り絞って、全力でおいしい料理を作る。でも、たまに‥‥まったく食材の目利きをさせてもらえないまま、「これ、とりあえず食べられるようにしてよ」と、生ゴミが詰まった袋をいきなり手渡されるような目にも遭うのだ。用意すべきものも、目指すべき目標も、根本的に間違っている。そういう依頼をしてくる人はたいてい、それが間違っているとは露ほども思っていない。

「とりあえず食べられればいいもの」を作るような仕事は、僕はやりたくない。

やがて綺麗な花に

朝から晩まで、ゲラチェック。

赤いゲルインキのボールペンを握りしめ、三種類のゲラを突き合わせながら、一枚ずつ、赤字を書き込んでいく。部屋の中は、デスクからソファからコーヒーテーブルに至るまで、そこらじゅうにゲラが散乱。修羅場と呼ぶにふさわしい光景(笑)。

夜中まで粘って、どうにか六割くらいのチェックを終える。目がショボショボして、これ以上は集中力は保たない。今日は、近所の中華料理屋に晩飯を食べに行った他は、ほんと、仕事しかしなかった。

でも、今、がんばって土を耕して種を蒔けば、やがて綺麗な花が咲くはず。まあ、派手でゴージャスな花にはならないだろうけど、きっと綺麗な花が。

ゲラは心を映す

午後、市ヶ谷で打ち合わせ。今作っている本の初校ゲラを突き合わせながら、出版社の編集者さんと打ち合わせ。会議室の貸切時間をオーバーするまで、みっちりと話し合う。

ゲラチェックは、雑誌の編集者だった頃からの馴染み深い作業だ。自分が作ったページを他の編集者さんにチェックしてもらったことも、数え切れないほどある。誰がやっても同じような作業と思われがちだが、ゲラへの赤字の入れ方には、その編集者の個性や人柄が如実に出ると思う。

印刷みたいに几帳面な字で書かれた赤字もあれば、ザザザッと勢いよく書き込まれた赤字もある。担当者への誠意が伝わるような丁寧な赤字であることがほとんどだが、たまに、明らかにこちらを見下しているような赤字を受け取ることもある。少しでも内容を面白くしようとあれこれ提案してくれた赤字をもらったこともあれば、たいして興味ないと言わんばかりに投げやりな赤字をもらったこともあった。ゲラに書き込まれた赤字は、編集者の心を映すのだ。

今日受け取った初校ゲラには、最初から最後までびっしりと、そして丁寧に赤字が書き込まれていた。いい本を作りたい。そう思ってくれていることが伝わってくるような赤字だった。

赤いボールペン

終日、部屋で仕事。昼間のうちは、電話の打ち合わせに時間を取られてしまった。晩飯にパスタを茹でて食べてから、本格的にゲラチェックを開始。

赤いゲルインキのボールペンを手に、ゲラの上にかがみ込むと、かちっ、と編集者モードのスイッチが入るような気がする。編集者モードというのは‥‥細かいところまでちまちまこだわるモード、という感じだろうか(笑)。そういう偏執的なところがある人じゃないと、この地味で単調な仕事には向いていないような気がする。

ま、僕の場合、思いもよらないところが、ぼそっ、と不注意で抜けてたりすることがよくあるので、あんまり向いているとは言えないのかもしれない(笑)。

「黒子」からの一歩

終日、部屋で仕事。はかどっているとはいえないが、それでも、少しずつ前には進んでいる、と思いたい‥‥。

一昨日、昨日と書いてきた、仕事にまつわる断想の続き。

僕は雑誌の編集者としてキャリアを始め、やがて、自分でもライターとして、いくつかの雑誌で記事を書くようになった。そうした記事のほとんどは、取材やインタビューを基にしたもの。僕は、取材する題材や人々の魅力を最大限に引き出す「黒子」としての役割に徹していた。それは、編集者の頃からのスタンスの延長線上にあったのだとも思うし、そのことに対して一種の職人的な喜びを感じてもいた。

ただ、キャリアを重ねていくうちに、僕の中には、もやもやした感情が次第に蓄積されていった。燦然と輝きを放つ魅力的な人にインタビューをして記事を書いたとしても、それは結局、その人の魅力に頼って、おすそわけをもらっているだけなのではないか。僕自身の中にある思いは、何も伝えられていないのではないか、と。

「黒子」に徹した職人的なライターは(たぶん)常に必要とされているし、僕自身、今もそういう立場での仕事を続けている。そうしなければ、正直、食っていけない(苦笑)。でも、そんな「黒子」としての立場から一歩踏み出して、完全に自分自身を晒して「ラダックの風息」を書いた時、僕の中にあったもやもやした感情は消えてなくなった。たとえ非力でも、自分自身の思いと言葉で勝負する。それが読者に届いた時の喜びは、「黒子」に徹していた時とは比べものにならなかった。

これからずっとそういう仕事を積み重ねていければ理想的だけど、世の中、そんなには甘くない(苦笑)。でも、自分が伝えたいことは何なのか、それは自分にとって何なのか、常に自問自答しながら、心の中にある目標を忘れずにやっていければ、と思う。