「ガリーボーイ」


10月中旬から日本国内で公開されるインド映画「ガリーボーイ」。インド本国で公開されたのは今年の初め頃だったから、一年経たずに日本にも上陸という、今までにない早さだ。僕は9月末から3週間半ほど取材でタイに行くので、映画館で見るのは帰国してからかなと思っていたのだが、昨日新宿ピカデリーで、ゾーヤー・アクタル監督と脚本家のリーマー・カーグティーを迎えての「ガリーボーイ」ジャパンプレミアが。この機会を逃すまじと、観に行ってきた。

今年の1月から3月までインドにいた時、ホテルの部屋でテレビをつけると、「ガリーボーイ」のMVがものすごいヘビーローテーションで流れていた。僕も帰国直前に、デリーのコンノート・プレイスの映画館でこの映画を観ようかなと考えていた。ただ、この映画の主題はラップである。日本語どころか英語字幕もない状態では、画面の雰囲気だけしか感じ取れないのではと思い直し、結局観なかった。それは正解だったと思う。今回のジャパンプレミアで、藤井美佳さんによる日本語字幕の付いた状態で観て、この映画の魅力は「言葉の力」の強さであることを、あらためて実感した。

主人公ムラドがノートやスマホに書きつけ、マイクを手に叫ぶ言葉は、激烈で、美しく、悲しみと怒りに満ちている。ムンバイのスラムで生まれ育った彼は、理不尽なほどの身分と貧富の格差にがんじがらめにされ、夢を見ることすら許されない。医大生で恋人のサフィナも、生活は豊かだが人生を選ぶ自由を奪われた、籠の中の小鳥だ。彼らは胸の奥に、炎のような怒りを抱えて生きている。終盤のラップバトルの場面で、ムラドが自分の左胸に何度もマイクを叩きつける姿が、その怒りの激しさを象徴していたと思う。

以前から「クローゼット・ラッパー」だったというランヴィール・シンが自身の声で歌ったラップは、完璧を通り越して凄まじいクオリティだった。「ラームとリーラ」「バージーラーオとマスターニー」「パドマーワト」などで彼が演じてきたのとはまったく違う寡黙で控えめな役柄だったが、だからこそラップでの爆発が活きる。強烈に振り切れた性格のサフィナはアーリヤー・バット以外では演じられなかっただろうし、MCシェールやスカイなど、その他の登場人物もきっちり描かれていて、魅力的だった。何より、ムンバイという巨大都市の抱える理不尽な現実そのものが、この作品に圧倒的な説得力をもたらしていたように思う。

「路地裏の少年」たちは、言葉と音楽の力で、呪われた運命を切り拓く。その姿に、勇気に、喝采を送らずにはいられない。

潜る日々

毎日、本の原稿を書き続けている。

進捗としては、まだ全体の2割に届くかどうかというところ。予想していたよりも、はるかに手強い。この密度感の文章を最後まで書き続けるのかと思うと、慄然とさえしてしまう。今の自分でコントロールできるのか。自分自身が納得のいく形にまで仕上げられるのか。妥協に逃げないでいられるのか。不安でしかない。

毎日、暗い水の中に飛び込んで、潜り続けているような感覚だ。無数の言葉が漂う海。記憶の海。心と感情の海。どこまで潜っても、底が見えない。求めているものを掴み取って、水面に浮かび上がることはできるのか。そこまで息は続くのか。

しんどい日々が続く。

それは誤解などではなく

「誤解を招きかねない表現でしたので、撤回してお詫びします」

最近、こういう文言をやたら目にする。少し前までは、政府与党の政治家が何かしら失言・放言をやらかした後に言い訳する時のテンプレートみたいなものだったが、最近では、最大手の新聞や出版社、テレビ局ですら、判で押したように同じテンプレの言い逃れをするようになった。

たいていの場合、彼らの失態には、我々の側の誤解という要素は含まれていない。国際社会の常識とは相容れない彼らの本音が、ボロボロとはみ出しているだけである。たちの悪いことに、政治家もメディアも、叩かれて炎上しないぎりぎりのラインを狙って、本音をちらちらのぞかせようとしている輩が多い(たいてい失敗するのだが)。それは一部の層の人気取りのためであり、メディアにとっては目先のはした金のためでもある。

社会が行き詰まってくると、人間は憎悪をたぎらせて、憂さ晴らしをしようとするのだな。一歩間違えば取り返しのつかない、危険な憂さ晴らしを。愚かなことだ。

収納の追求

三鷹から西荻窪に引っ越してきて、一年と少々が過ぎた。引っ越し当初はバッタバタだった部屋の中もだいぶ落ち着いてきて、しっくりくるようになってきた感はある。

1LDKの部屋での二人暮らしなので、そんなに広々と使えるわけでもなく、収納スペースも割と限られているので、二人分のモノをいかに邪魔にならないように収納するかが、引っ越し当初からの課題だった。特に僕の方が、異様に本が多かったり(引っ越し前にだいぶ処分はしたのだが)、カメラ機材も多かったり、その上なぜかアウトドア関係のウェアやグッズもたくさんあったり(たとえば寝袋が春夏秋用と厳寒期用と2つもあったり)で、相方にだいぶ迷惑をかけてるので、収納に関しては相当に頭を使った。

役に立ったのは、やはり無印良品。使いやすいサイズ感とバリエーション、コスパは最強だと思う。最近では、酒瓶とかを安定して保管するための薄型の棚とかを無印で調達している。この週末も、壁に取り付けるフックなどを無印で物色してこようかと思案中。

広々とした家に住むのはそりゃ快適だろうとは思うけど、こぢんまりした家であれこれ工夫しながら居心地よく暮らすのも、面白いなあと思う。

切れる縁、切れない縁

子供の頃は、友達と何かでもめてケンカしたりしても、割とすんなり仲直りできていたように思う。

ケンカした後もこじれたままになるようになったのは、高校生くらいからだろうか。それなりに頭がよくなって、自分の行動に理屈をつけられるようになったからか。相性のよくない人とはある程度距離を置く、という小賢しい方法も使うようになった。

大人になってから知り合った人とも、何かのきっかけで、うまくいかなくなることが時々ある。ふりかえってみると、僕の場合はほとんど、仕事で繋がりのあった人とのトラブルだった。

自分が大切にしている仕事に関して、不義理なこと、筋の通らないことをされたなら、たとえ相手が企業だろうが何だろうが、黙って受け入れるわけにはいかない。相手が自身に非があると認めないのであれば、それまでと同じように仕事のやりとりを続けていくことはできない。謝ろうとしない相手を許すことなど、できるわけがない。

子供の頃のように、感情的な好き嫌いとか、お互いのどこが悪かったとか、単純にわかりあえるなら、謝ることも、許すことも、簡単なのだろうなと思う。とかく大人は、自分で理屈をつけて言い訳してしまうから、めんどくさい。そういう人を相手に、個人事業主としてまっとうに筋を通して生きていこうとするだけでも、むつかしい。

その一方で、これはもう切れてしまうかなと思っていた縁が、切れずに繋がり続けたという経験も、少ないながらある。それはたぶん、お互いがお互いにとって大切な存在だったから、それぞれが少しずつ歩み寄って、繫ぎ止めることができたのだろうと思う。逆に言えば、何かがあっても歩み寄ろうと思えない間柄は、遅かれ早かれ、離れていくということなのだろう。

切れる縁は切れるし、切れない縁は切れない。そういうものなのかなと思う。