日帰りで仙台へ

先週の徳島取材から一転、今日は仙台での取材。もちろん日帰り。のんびり自腹で泊まってくるほど、スケジュールにも予算にも余裕はない(泣)。朝から微妙に頭が重かったのだが、気合で乗り切ることにする。

東京駅から東北新幹線に乗り、昼過ぎに仙台着。そこから車に乗せてもらって取材先へ移動。先方も時間が限られているということで、超特急でインタビューと撮影。こういう時、往々にしてポカをしてしまいがちなので、聞き忘れ、撮り忘れがないか慎重に確認する。

どうにか取材を終え、仙台駅に戻ってきてから、ある意味で今回のメインイベント、牛タンを食べに行く。駅から少し歩いたところにある旨味太助というお店へ。牛タン定食と生ビールを注文。どーんと盛られた牛タンの塩焼を頬張り、ビールをごきゅっ。至福‥‥。ネギだくのテールスープと麦めしもうまい。これで仙台で思い残すことはない(笑)。

駅までの道程を歩いている途中、ふらっと入った街の本屋の棚に、「ラダックの風息」が置かれていた。こんな北国の本屋に、僕の本がある。当たり前といえば当たり前かもしれないけど、何だか不思議な気分になった。

器用貧乏

今の段階で書かなければならない原稿はとりあえず形になったので、今日は比較的のんびり。とはいえ、明日は日帰りで仙台まで取材に行かなければならないので、気を抜いてもいられない。

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僕の仕事上の肩書は、フリーランスのエディター、ライター、そしてたまにフォトグラファーということにしている。得意分野も色々で、「ラダックの風息」のような旅モノの本も作れば、「リトルスターレストランのつくりかた。」のような取材ベースのノンフィクションも書くし、広告やデザインのクリエイターへのインタビューとか、Web絡みのテクニカルな企画とかも請け負う。「いろんな仕事をされてるんですね!」と言ってもらえることもあるが、自分では、器用貧乏に陥っているのではないかなと感じている。

とはいえ、本作りの世界では、器用貧乏は決して悪いことばかりではない。特に編集者の立場だと、いろんな得意分野やスキルを持っていることは、企画の幅を広げるし、他の専門職のスタッフと作業する時にもプラスに働く。僕が学生時代に出会って、今もお手本にしている編集者の方々も、何でもこなせるスーパーマンのような人たちだった。

それに本作りで一番大事なのは、「何ができるか」ではなく、「何を作りたいか」「何を伝えたいか」ということだ。自分が作りたい本を作るのに、いくつものスキルが必要で、それを肩代わりしてくれる人がいないのなら、自分でやるしかない。でなければ、その本はこの世に生まれない。「ラダックの風息」はその典型的な一冊だった。

まあでも、「自分は専門職じゃないから」という言い訳をしているようではダメだ、とも思う。編集にしても、文章にしても、写真にしても、それぞれの道のスペシャリストに負けないようにスキルを磨かなければ‥‥。やるからには、本気でやる。目指せ、脱・器用貧乏。

法の下で

終日、部屋で仕事。先週取材した案件の原稿を書く。明後日はまた取材だから、今のうちに進められるだけ進めておかなければ。

テレビでは、尖閣諸島沖の漁船衝突事件の映像を「自分が流出させた」と名乗り出た神戸の海上保安官の話題でもちきり。世間では「彼を逮捕すべきではない」という人も多いようだが、僕は必ずしもそうは思わない。中国と違って、日本は法治国家だ。動機は何であれ、彼は国家公務員法の守秘義務違反をした疑いがある(件の映像が国家機密にあたるかどうかは判断が分かれると思うけど)。彼のしたことが正しかったのか、それとも間違っていたのかは、法廷できちんと裁かれるべきだ。自ら名乗り出た以上、彼も自分が有罪になるかもしれないことは覚悟しているだろう。

そしてその法廷では、尖閣諸島沖でどんな事態が起こったのか、それを民主党政権がどんな手段でうやむやにしようとしたのか、そういったことも全部詳らかにされるべきだ。すべてを法の下で明らかにしてこそ、なぜ中国船の船長が超法規的措置で釈放される一方で、この海上保安官が罪に問われなければならないのか、そのいびつさが浮かび上がってくると思う。

まあ、仙谷官房長官は「彼は国家機密を流出させた!」とか息巻いているらしいけど、流出と同じ日にテレビ各局で放映されまくっちゃうような国家機密って、どれほどのもんなの? と思わずにいられない(笑)。

ドナドナ

午後、三鷹駅改札で、昔の職場の後輩と待ち合わせ。僕の家で要らなくなった古いテレビを引き取ってもらうことにしたのだ。駅まで運ぶ途中でどこかにぶつけて壊すわけにはいかないので、周囲をプチプチでくるんで、慎重に運んだ。

思い返してみると、僕は今までにも、結構いろいろな電化製品を知り合いにドナドナして引き取ってもらっている。今の家に引っ越してから電話回線の相性で動作しなくなったファクス複合機とか、新しいソフトが動作しなくなったので見限ったPowerBook G4とか‥‥。どれもこれも、Twitterでぼそっと呟いただけで引き取り手が現れたので、こちらとしては大助かり。電化製品は購入から五年が過ぎると買い取り価格がゼロに等しくなってしまうし、リサイクル費用もバカにならない。僕も、長年使ってきたものがゴミとして廃棄されてしまうより、欲しいと言ってくれる知り合いの手に渡る方が、ずっとうれしい。

今回ドナドナされていったテレビは、DVD再生専用機として第二の人生をスタートさせるのだという。達者でな。

慢心への戒め

最近は、取材原稿を書くのと並行して、先日ある地方自治体から依頼された、一般の方々が書いたレポート記事の添削の作業もしている。

提出された記事のクオリティは‥‥まあ、一般の方が書いたものだから、厳密にチェックしはじめると直すべきところはたくさんある。でも、いくつか目を通していくと、文章の上手下手に関係なく、「これはいいレポートだな」と思えるものと、そこまで印象に残らないものとがあることに気づいた。

読み手の心に残る文章は、月並みな言い方だけど、きちんと気持を込めて書かれている文章なのだな、とあらためて思う。文章を書き慣れている上手な人は、そんなに気持を入れなくても、それなりのクオリティの文章が書けてしまう。でも、そうして書かれた文章は、底が浅い。読み手の心には残らず、すぐに忘れ去られてしまう。

毎日ブログを書いているとか、雑誌に記事を書いているとか、そうした蓄積があることに慢心していると、いい文章は書けなくなると思う。文章とは、書くことが目的ではなく、読み手の心に伝えることが目的だから。