ずんずん歩く

一昨日、昨日と出歩いて疲れが溜まっていたのか、昼頃まで爆睡。どうにか起き上がって、おひるにラーメンを作り、ガイドブック関連のチェック&連絡業務や、明日から立て込んでる取材の準備をする。

夕方、ちょっと時間に余裕ができたので、この間からボタンが取れそうになっていたコートを修理に出すため、歩いて吉祥寺へ。今日は暖かい。アイスでも食べたいような日和だ。コートを詰め込んだトートバッグを担いで、ずんずん歩く。歩いていると、頭の中でこんがらがっていた考えが、一歩踏み出すたびにほぐれていくような気がする。

30分ほど歩いて、吉祥寺着。コートを修理に出した後、井の頭公園をぶらぶら歩く。桜の花は満開を少し過ぎかけたところで、真っ白な桜の天蓋の下を歩いているような気分。公園にいる人の8割はヨッパライだ(笑)。

まめ蔵でポークカレーを食べ、またもずんずんと歩いて、家を目指す。行手の西の空が、淡い暮色に染まっていく。

桜並木

昨夜はラダックをテーマにしたトークイベントにゲスト出演したりしていて、すっかりヘロヘロだったのだが、今日を逃すとゆっくり花見をする時間がないということで、眠い目をこすりつつ、出かけてきた。目指したのは国立。うららかな陽射しの下で、ずらりと並んだ桜並木が、細い枝の先までぷくぷくと白い花をつけていた。特にカメラは持って行かなかったのだが、iPhoneでもそれなりによく写る。

期待という名の賭け金

昼、印刷会社から連絡。ガイドブックの第一次修正作業が終わって、データを用意してくれたとのこと。さっそくPDFをダウンロードしてチェックする。

この修正作業、先週末までに僕と編集者さんが用意した、修正指示で真っ赤になったゲラを基に、今週いっぱいかけて印刷会社のオペレーターさんが取り組んでくれていたものだった。途中聞いていた話では「とても手に負えない部分もあるので、かなりの部分をまたデザイナーさんにお願いするかもしれない」という雲行きだったのだが、PDFを見て、びっくり。「ここまで直ってるとは」とちょっと驚いてしまうほど、綺麗に手を入れてくれていた。これなら、この後の作業は格段に楽になる。

一冊の本は、一人の力だけではできない。たくさんの人たちが力を貸してくれて、初めて作り上げることができる。単なる仕事や人付き合いの枠を越えて、みんなは言い出しっぺの僕に、期待という名の賭け金を賭けてくれているのだ。それは、時にとてつもなく重く感じるけど、同時に自分を支えてくれてもいる。

あともう少し、がんばらねば。

大きく跳ぶ

去年からずっと取り組んできたラダックガイドブックの制作も、いよいよ佳境。終わりが見えた、というにはまだ早いけど、終わった後のその先を考える時期には来ている。

これまでに撮影してきた写真や、経験してきたことに基づくアイデアなど、それなりの蓄積ができてくると、どうしても、その蓄積だけでもある程度のものが作れるのではないか、という気分になってしまう。今の自分ならやっていける安全圏に、基準を置いてしまいがちになる。でも、それではダメだな、と最近また思うようになった。

収入面とか、周囲の評価とかを考えれば、確実にできる範囲で手堅くやっていく方が有利に決まっている。でも、僕はやっぱり、大きく跳びたい。たとえ、それでずっこけることになったとしても、その先にある景色を見てみたい。

写真は撮らなければ見てもらえないし、文章は書かなければ読んでもらえない。人の心を動かすのは、とてもとても難しいことだ。覚悟を決めなければ、と思う。

震災の記憶

午後、吉祥寺へ。吉祥寺美術館で開催中の石川梵さんの写真展「The Days After 東日本大震災の記憶」を観る。

去年起こった震災の時、石川さんは翌日自らセスナをチャーターし、東北の被災地の空撮を行った。その後も陸路で被災地を回り、二カ月にも及ぶ現地取材に取り組んだ。取材は今も続けられていて、この写真展ではつい先月撮影されたばかりの、震災から一年後の被災地の写真も展示されていた。

それは、報道写真のような「記録」の写真ではなかった。一人の写真家が長い時間をかけて見つめ続けた、「記憶」の写真。たとえようもない悲しみと、虚無感と、そして‥‥雲間から微かに射す光。そこに光があるのかどうかさえ、わからないほどの。

人間は、忘れる動物だ。特に、自分と直接関係のない他人の悲しみについては、忘れるのが早い。悲しみだけに囚われて生きていくのは決していいことではないけれど、でも、あの震災の「記憶」は、すべての日本人が胸の奥に小さな痛みとして抱え続けていくべきものだと思う。でなければ、被災地の人々をこれから支えていくことなどできはしない。

石川さんの写真は、あらためてそのことを教えてくれた気がする。