取材抜きの旅

この間のトークイベントの打ち上げの席で、「取材を抜きにして、世界のどこへでも旅に行けるとしたら、どこに行きたいですか?」と訊かれた。

ふりかえってみれば、たぶんここ10年くらいの間、完全に取材を抜きにして海外を旅したことは、一度もなかったと思う。依頼される形での旅はもちろん、完全に個人的な動機からの旅でも、目的は取材だった。現地を旅しながら、写真を撮り、細かくメモを取り、日本に戻ってから何らかの形でまとめて発表する。本や雑誌、Webサイト、写真展、トークイベント。いつのまにか、取材をしながら旅をすることが、当たり前のようになっていた。

取材とか仕事とか、いっさい抜きにして、旅に出る。それは気楽で楽しいかもしれない‥‥と思いかけて、はたと気付いた。今の僕にとって、取材をいっさいしない旅というのは、とても居心地の悪い、つまらない時間になってしまうだろうということに。

旅をしながら、見て、聞いて、感じて、撮って、書いて、それを誰かに伝える。そういうことをひっくるめた全部が、僕にとっての旅なのだと思う。

悪気はなかった

たとえば、の話である。

ある人が善意で募金活動をしていた。その人が配っている手製のチラシに、なぜか、僕が昔撮った写真が使われていた。どうやら、その人がネットで画像検索してどこからか見つけたものを、チラシにするのに具合がいいからと、そのまま使ってしまったらしい。

「それは僕の写真です」と僕はその人に言う。善意の募金活動でもあるし、掲載料を払えとは言えないが、それでも「無断で使用するのは困ります」とは言わなければならない。その写真を撮影した者として。

「すみませんでした。悪気はなかったんです」とその人は言う。別の写真に差し替えます、とも。僕には何だかもやもやした気持ちが残る。細かいことにツッコミを入れて、意地悪な仕打ちをしてしまったような。

そういう場合の、そもそもの解決策。

たとえ善意の目的だろうと、無償の奉仕だろうと、ネットで拾った画像を使って何かを作ろうなんて発想をするな。必要な素材は、それを所有する人間に「使わせてください」と、頼め。

考えてみれば、当たり前のことだ。その当たり前の手順を踏めない人が、世の中には多すぎる。

いちごの味

晩飯の食材の買い出しに近所のスーパーに行った時、何の気なしに、いちごを1パック買った。ついでに練乳も。いちごに練乳をかけて食うなんて、もう、いつ以来だか思い出せない。何十年ぶり、くらいかもしれない。

実家のある岡山は気候が温暖で、果物栽培も盛んだった。子供の頃、果物は当たり前すぎるくらいいつも食卓にあった。マスカットや白桃など、東京で買うと目玉が飛び出るくらい高価な果物も(もちろん地元で出回るずっと安いものだが)、季節になれば毎日のようにぱくぱく食べていた。

いちごも確か、親戚が露地栽培していた記憶がある。子供の頃、収穫の手伝いというか、もいでは食べ、もいでは食べ、していた記憶もある(笑)。あの時食べた、小さないちごの味だけは、今も不思議によく憶えている。すっぱかった。でも、たまらなくおいしかった。お日さまの恵みが、ぎゅうっと詰まったような味だった。

二日連続日帰りで群馬

取材のため、昼から外出。昨日に引き続き、今日も群馬へ。昨日は板倉で、今日は前橋。そういえば、先月は高崎にも行ってたっけ。なんでこんな急に群馬ばっかり行く羽目になっちゃったんだろう。

今日は東京駅から高崎まで新幹線を使えたのだが、それでも家を出てから取材先まで、片道2時間半くらいかかる。群馬自体がどうこうではなく、とりあえず、家から遠いのがつらい。何やってるんだろ俺、と、車窓を流れていく景色を眺めながら、ちょっとたそがれた気分になる。

来週の金曜も、また高崎で取材がある。やれやれである。

天使の梯子

今日は朝から、さんざんだった。

6時起きで身支度をして取材現場の北千住まで行ったのに、取材日が別の日にリスケされていたことが判明。僕にはその連絡が来ていなかった。そのまますぐ家に帰れたならまだよかったのだが、この日は午後半ばから、北千住からさらに北上した群馬県のあたりでもう1件取材があった。つまり、北千住で5時間近くも、一人で時間をつぶさなければならなくなったのだ。

とりあえずおひるを食べ、マクドナルドとクリスピークリームドーナツをコーヒーでハシゴして、あとはルミネやマルイをうろうろ。なんて無意味な時間潰しだろう‥‥家にはたんまり仕事が残っているというのに。身体の疲れもそうだが、精神的にもう、うんざりしてしまった。

ようやく乗った、北へと向かう電車。音楽を聴きつつ、窓の外をぼんやり眺める。ガタンガタン、と、川にかかった鉄橋を渡る。川沿いの土手に、菜の花だろうか、黄色い花が一面に咲いている。空を見上げると、雲の切れ間から、いく筋もの光柱が降り注いでいた。ああいうのを「天使の梯子」と呼ぶのだっけ。

ぐだぐだ悩んでいる時でも、世界は、当たり前のように美しい。