Category: Review

夏葉社「さよならのあとで」

死は、誰のもとにも平等に訪れる。死からは誰も逃れられないし、愛する人を失う悲しみからも、誰も逃れられない。誰よりも大切な存在だった人でさえ、時に唐突に、理不尽な形で失われていく。

さよならのあとで」は、英国の神学者で哲学者でもあった、ヘンリー・スコット・ホランドの「Death is nothing at all」という詩の本だ。詩集ではなく、この本には、ただ一編の詩しか収録されていない。四十二行の詩と、挿絵と、あとがき。ただそれだけなのに、ページをめくるたび、こんなにも胸を突き動かされるのはなぜだろう。何も印刷されていない、真っ白なページでさえ。この本でしか伝えられない、この本にしか届けられない思いが、一文字一文字ににじんで見える。

この詩は、唐突に立ち去ってしまった大切な人から届けられた言葉なのだと思う。私のことは何気なく心の隅にピンで留めて、これからも続いていく日常を精一杯生きてほしい。私はすぐそこで待っているから、と。僕にとって、それは父の言葉だった。

この「さよならのあとで」を編んだ夏葉社の島田潤一郎さんは、吉祥寺でたった一人で出版社を営んでいる方だ。三年前に会社を立ち上げる前、島田さんは親友でもあった従兄の方を交通事故で亡くした。その時からずっと、島田さんはこの本を作り続けてきたのだという。この本を出すために出版社を始めたといっていいほどの、ありったけの思いを込めて。これは、とても個人的な思いで作られた本だ。でも僕は、そういう個人的な思いを核に作られた本だけが、人の心を突き動かす力を持ち、ずっと読み継がれていくのだと思う。

大切な人を失った人のもとへ、この本が届きますように。

「CUT」

イランの映画監督アミール・ナデリが日本で撮った作品が公開されると聞いて、これはスクリーンで観なければ、と前々から思っていた。2012年、僕が最初に観た映画が、この「CUT」だ。

西島秀俊演じる主人公の秀二は、映画監督。兄から金を借りて三本の映画を撮ったが、どれも世に認められているとは言い難い。自分が暮らす古いビルの屋上で名作映画の自主上映をしたり、街でトラメガを手に映画業界の堕落を糾弾する演説をぶったりと、映画に取り憑かれたような日々を送っている。

ある日、秀二は兄が死んだという知らせを受ける。ヤクザに関わって借金の取り立てを生業としていた兄は、ヤクザの事務所から多額の借金をしたことが原因でトラブルに巻き込まれ、命を落としてしまったのだ。自らを責める秀二に突きつけられたのは、兄が遺した1254万円の借金の借用書。残り二週間で借金を返済するために、秀二は、ヤクザを相手にした「殴られ屋」になることで、金を稼ごうと試みる——。

秀二の端正な顔が、ボコボコに殴られて赤黒く腫れ上がっていくのが、気高く見えてくるのは何故だろう。一発、一発、殴られるたび、彼は呪文のように、敬愛する映画監督の作品名を呟く。彼は、借金を返すために殴られているのではない。映画を守るために殴られているのだ。狂気にも似た映画への愛と、それを理解せず金儲けしか考えない今の映画業界への怒り。ナデリ監督にとって、秀二はきっと「映画」そのものなのだと思う。どれほど打ちのめされても、映画は死なず、立ち上がる。クライマックスシーンに挿入されるテロップに、監督の思いが凝縮されている気がした。

主人公はひたすら殴られっぱなしだというのに、不思議なくらい爽快な作品だった。映画って、いいなあ。

リボルテック ダンボー・ミニ Amazon.co.jpボックスバージョン

二カ月ほど前に注文したものの、ずっと入荷待ち状態でほとんど忘れかけていたのだが、年明け早々、ようやくこいつが届いた。

ダンボーは、「よつばと!」に登場するロボット(?)。夏休みの自由研究にダンボールで作られた着ぐるみで、これまでの登場回数はたった二回だけなのだが、その圧倒的なインパクト(ダンボールにもかかわらず!)で人気を集め、「よつばと!」を象徴するキャラの一つになった。

僕が今回手に入れたのは、リボルテック ダンボー・ミニ Amazon.co.jpボックスバージョン。「ダンボーの材料になったのが、アマゾンのダンボールだったとしたら?」という設定で、ロゴや注意書きなどが実際の箱そっくりに再現されている。もともと、これの倍近い大きさのモデルが先行して販売されていたのだが、机の上にちょこんと飾っておくには、ミニサイズの方が都合がいい。

うちのダンボーは今、デスクスタンドの傍らで、僕の仕事ぶりをぼけ〜っと見守っている。僕がだらけてサボりはじめたら、カッ!と目を光らせて(実際、光る!)気合を入れ直してくれるに違いない。「ワタシハオカネデウゴク」とか言いはじめたら困るけど(笑)。

畠山美由紀「わが美しき故郷よ」

畠山美由紀の曲は、昔から好きでよく聴いていた。気がつけばソロアルバムはほぼ全部持っているし、Port of Notesのベスト盤もある。特にお気に入りの「わたしのうた」は、iPodに入れてラダックに持って行ったりもした。豊かな低音から伸びやかな高音まで、素晴らしい安定感で歌い上げる彼女の歌声は本当に魅力的で、機会があればライブにも足を運んでみたいと思っているのだが、未だ叶わないでいる。

その畠山美由紀の5枚目のアルバム「わが美しき故郷よ」は、過去の彼女の作品とは、根本的に違う。彼女の故郷は、宮城県気仙沼市。3月11日の東日本大震災の後、これまでに感じたことのない痛みと喪失感に苛まれながら、彼女は歌い手として必死の思いでこの作品に取り組んだのだという。

いつも心の奥底にある、大切な故郷の記憶。そこではずっと、美しい海と山と川と、懐かしい町と、心穏やかな人々が暮らしているはずだった。そのかけがえのない故郷で、たくさんの命と、たくさんの大切なものが失われてしまった。書かずにはいられなかった言葉。歌わずにはいられなかった曲。その抜き差しならない彼女の思いが、この作品の中にぎゅっと込められている。特に、表題曲となっている「わが美しき故郷よ」の詩の朗読と楽曲は、じっと耳を傾けていると、目に涙が滲んできて仕方なかった。

どれほどの哀しみに襲われようと、それでも、地球は回り、夜が明け、明日が来て、人生は続いていく。みんな、胸の奥に痛みを抱えながら、互いに手を差し伸べ、優しい言葉をかけあって生きていくのだ。彼女は未だ癒えない哀しみとともに、これから続いていく世界を全力で肯定しているように感じた。

忘れてはいけないものがある。たとえそれが、哀しい記憶であっても。

オリヴィエ・フェルミ「凍れる河」

ラダックやザンスカールをテーマに撮影に取り組んでいるフォトグラファーは大勢いるが、オリヴィエ・フェルミはその中でも間違いなく第一人者だと思う。レーの書店の一番目立つ場所には彼の写真集が平積みにされているし、毎年夏になると大勢のフランス人がザンスカールを訪れるのは、ひとえに彼の写真の影響によるものだ。

この「凍れる河」は、1990年にワールド・プレス・フォト賞を受賞した写真集の邦訳。ずっと前から絶版になっていたのだが、状態のいい古本をようやく手に入れることができた。

ザンスカールのタハンという村で生まれ育った幼い兄妹、モトゥプとディスキット。フェルミたちの援助で、二人はレーにある寄宿学校に行くことになった。兄妹は父親のロブザンとともに、氷の河チャダルを辿る旅に出る——。

A5サイズの上製、150ページ足らずの小さな写真集。だが、この「凍れる河」の中には、ザンスカールの自然と人々に対するフェルミの想いが、あふれんばかりに詰まっている。ダイナミックな構図で切り取られた、鮮烈なコントラストの写真の数々。短くシンプルだが、寄り添うような情感を感じる文章。途方もなく寒いはずのチャダルの写真ばかりなのに、ページをめくるたび、心がふわっと暖かくなるのは何故だろう。

フェルミは若い頃、登山家を目指していたそうだが、山の頂に登るより、谷間に暮らす人々の穏やかな微笑みに惹かれるようになったのだという。自分が惚れ込んだ場所を、とことん時間をかけて取材し、その地に生きる人々との心の絆を深めていく。だからこそ、フェルミはこういう写真と文章をものにできたのだと思う。僕自身、取材に対する彼の真摯な姿勢には、学ぶべきところが多いと感じている。

余談だが、この本の主人公の一人、モトゥプは僕の大切な友人でもある。レーの街のフォート・ロード沿い、チョップスティックスというレストランの隣にある、オリヴィエ・フェルミ・フォトギャラリーに行けば、大人になった彼が笑顔で出迎えてくれるはずだ。