Category: Review

職人が作るオイルドレザースリーブ for iPhone

先月末、ちょうど二年ぶりにiPhoneを買い替えた。iPhone 4からiPhone 5(どちらも16GBのブラック)にしたのだが、サックサクな動作とWi-Fiを凌駕するLTEの爆速っぷりに、いたく感動。まあ、純正のマップアプリはほんとにどーしよーもない代物だし(苦笑)、楽しみにしてたSiriもまだ暇つぶしに使える程度の性能なのは残念だったが。

iPhone 5では全体が縦に長くなったので、普段持ち歩く時のスリーブケースも買い替えねばならなくなった。iPhone 3Gの頃から使い続けてきたフライターグのスリーブケースも、内張が破れてボロボロになってたし。で、次のスリーブケースは、iPhone 5を手に入れる前から予約注文していた(笑)。友人の遠藤幸作さんが経営する国立商店が販売している「職人が作るオイルドレザースリーブ for iPhone」だ。

このスリーブケースを選んだのは、同系列のiPad用のスリーブケースを去年から愛用していて、かなり気に入っているから。肉厚のオイルドレザーの心地いい手触りと、職人の手によるきちっとした縫製が素晴らしい製品なのだが、今回のiPhone用スリーブケースもそれらの長所を引き継ぎつつ、シンプルかつ安心感のある設計で、期待に違わぬ出来だ。使い込んでいくうちにエイジングが進んで、革がクタッとなじんでくるのが楽しみでたまらない。僕はiPhone本体にはケースも何もつけない状態で使っているが、薄手のポリカーボネート製のケースくらいなら、装着したままでも収納できるそうだ。

一個々々が職人による手作りなので、欲しい時に即座に手に入るわけではないけれど、予約して待つだけの価値は十分にある、と思う。

「最強のふたり」

パリの大邸宅で暮らす富豪のフィリップは、愛する妻を病で失い、パラグライダーの事故で首から下が麻痺する重傷を負った。周囲の人々が腫れ物に触るような憐れみと金目当てのへつらいで接する中、スラム街育ちで前科持ちの黒人青年、ドリスだけは違っていた。次から次へと辞めていく介護者の面接に来たドリスは、「不採用にしてくれ。そうすれば失業手当がもらえる」と言い放ち、フィリップにも何の同情も示さなかったのだ。何から何まで正反対の二人は、やがて不思議な友情で結ばれていく‥‥。

この「最強のふたり」(原題:Intouchables)は、2011年にフランスで年間興行収入トップを記録し、国民の三人に一人は観たという映画だそうだ。僕も前から気になっていて、昨日吉祥寺バウスシアターで観てきたのだが、じんわりとした感動に浸れる、予想以上の良作だった。たぶんそれは、フィリップが負っている身体的なハンディキャップが、ヘタな悲哀や感動の仕掛けに使われていなかったからだろう。身体の不自由も社会的な格差も関係なく、フィリップとドリスが同じ人間として互いに認め合い、育んでいく友情の確かさが、自然にテンポよく描かれていく。わかりやすく盛り上げたクライマックスではない、さらりとしたさりげない幕切れも、この映画らしいなと思った。

しかし、この邦題はやっぱり、ちょっと微妙‥‥(苦笑)。

「スケッチ・オブ・ミャーク」

沖縄の宮古諸島には、古くから受け継がれてきた独特の歌の文化が残されている。重い人頭税に苦しめられた厳しい暮らしの中で生まれたアーグ(古謡)、そして祈りの場所である御嶽(うたき)で捧げられた神歌(かみうた)。それらを歌い継いできた宮古諸島の人々についてのドキュメンタリーが、この「スケッチ・オブ・ミャーク」だ。

映画の造りとしては、島の人々の暮らしぶりやインタビューが、彼らのコンサートの模様と絡めて構成されているあたり、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を彷彿とさせる。僕たちが暮らしている同じ日本の中に、こうした素晴らしい祈りの歌の文化が残されていたことは、本当に驚きだ。これ以上ないほど素朴で、どこか懐かしく、大いなるものへの畏敬の念に溢れていて、聴いていると名状しがたい何かが心に沁み渡ってくる。

昔から当たり前のように口承で受け継がれてきたこれらの歌は、今では次第に記憶する人々が減り、受け継いでいくことが困難になっているという。僕が以前訪れたラダックのダーで暮らす「花の民」ドクパの人々も、古くからの土着の信仰に根ざした歌の文化を持っているのだが、同じように口承で受け継ぐことが困難になっているという話を聞いた。おそらく、世界のさまざまな場所で、こうした希少な文化が近代化の波に呑まれて消えようとしているのだろう。そういう意味では、古くからの記憶を持つ宮古諸島の老人の方々の声を記録したこの映画は、大切な役割を果たしたのではないかと思う。

同じ日本人なら、この映画を見届けておくことをおすすめする。

「ライク・サムワン・イン・ラブ」

アッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台にした新作を撮る。一昨年の秋、そのニュースを知った時は、動悸が早まったのが自分でもわかるほど心が躍った。イラン人である彼が、日本の俳優とスタッフを起用して作った、全編日本語の映画。その「ライク・サムワン・イン・ラブ」を、この間観てきた。

元大学教授の老人タカシが、亡き妻に似た女子大生アキコを、デートクラブを通じて自宅に呼ぶ。タクシーで彼の家に向かう道すがら、アキコは田舎から出てきた祖母を駅に置き去りにしたことを、今の自分が抱えている負い目とともに悔やんでいる。一夜が明け、アキコを彼女が通う大学まで車で送ったタカシの前に、彼女の恋人のノリアキが現れる。アキコの行動をすべて把握していなければ気がすまない嫉妬深さを持つノリアキは、タカシのことを彼女の祖父だと勘違いする‥‥。

‥‥といったあらすじらしきものを書くことは、この作品の場合、あまり意味がないのかもしれない。起承転結の整った物語というより、三人が出会ったわずか一日足らずの時間をスパリと切り取ったような映画。エラ・フィッツジェラルドのけだるい歌に乗って流れる時間は、嘘と真実が交錯する中、やがて予想もつかない渦を巻き、唐突に途切れる。観終わった後には、何とも言いようのない不思議な感触が残る。それでも、観客にはわかるのだ。三人の時間は、人生は、これからも続いていくのだと。

この映画では、固定カメラでの長回しや移動中の車内のシーンの多用など、キアロスタミらしさが存分に発揮されている一方で、イラン人の監督が撮ったとはとても思えないほど、「日本らしさ」が鮮やかに描写されている。ざわめきの絶えないレストラン、タクシーの車内、街の交差点、人々のとりとめのない会話‥‥。日本人である僕たちですら気付かず見過ごしていた何かを、キアロスタミはその繊細な感性で確かに捉えていた。

彼が「日本映画」を撮ってくれて、本当によかった、と思う。

「おおかみこどもの雨と雪」

細田守監督の最新作「おおかみこどもの雨と雪」は、日本に戻ったらすぐ観に行かなければ、とずっと気になっていた映画だった。で、昨日新宿の映画館に行くと、上映の二時間前からすでに席が売り切れていて、別の映画館でようやくすべり込めたという次第。

東京の西の外れ(国立らしい)の大学に通う花は、人間の姿に身をやつして生きる“おおかみおとこ”と出会って恋に落ち、一緒に暮らしはじめた。やがて二人の間には、雪の日に生まれた姉の「雪」と、雨の日に生まれた弟の「雨」という“おおかみこども”が生まれる。しかしある日、父親の“おおかみおとこ”はあまりにも唐突に命を落とす。大切な心の支えを失った花と二人の子供たちは、東京を離れ、人里離れた山奥の古民家で暮らすようになった‥‥。

人間とおおかみの二つの顔を持つ“おおかみこども”という設定はまぎれもなくファンタジーなのだが、この映画での花と子供たちの暮らしぶりは、とても丁寧で細かく、地味といっていいくらい現実味のある描かれ方をしている。「時をかける少女」のような切なく甘酸っぱい青春物語でもなく、「サマーウォーズ」のように爽快な冒険活劇でもないけど、この「おおかみこどもの雨と雪」では、穏やかで何気ない、でも確かなものが語られている。

子供が成長し、自分の居場所ややりたいことを見つけると、やがて、自分の生き方を選ぶ時が来る。子供にとってそれを選ぶのは覚悟が要ることだが、親にとっても、子供が生き方を選ぶのを黙って見守ることには勇気が要る。僕は親の立場になった経験はないから偉そうなことは言えないけれど、子供が誇りを持って生き方を選べる人間になれるように育てることは、親の一番大切な役割なのではないかと思う。昨年他界した僕の父は、僕が進学や仕事に関わることでどんな選択をしても、ずっと僕を信じて、辛抱強く見守っていてくれた。そのことには、本当に感謝している。

雨が自分の生き方を選んだ時、花は笑顔で「しっかり生きて!」と言った。あのひとことに、この映画のすべてが込められていたような気がする。