Category: Review

「Dangal」

2016年末に公開されて以来、インドのみならず世界各国で大ヒットを記録した、アーミル・カーン主演の映画「Dangal」。日本国内でも今年の春先に公開されたのだが、配給元の宣伝手法に関して個人的に許せない点がいくつかあったので、抗議の意味も含めて、日本ではあえて観に行かなかった。で、夏にエアインディアに乗った時、機内でようやく全編に目を通した次第。

マハヴィールは才能に溢れたレスラーだったが、経済的な理由でレスリングの道をあきらめざるを得なくなる。「息子が生まれたら、その子をレスラーに育てて自分の夢を託そう」と思い立つが、生まれてくるのは女の子ばかり。ところがある日、長女ギータと次女バビータが近所の男の子たちをケンカで叩きのめすほど腕っぷしが強いことがわかり、マハヴィールは彼女たちをレスラーに育てようと決意する……。

実在の親子をモデルにした作品ということもあるが、(日本の配給会社がしゃにむにその方向で推そうとしていた)スポ根映画として見れば、物語はとてもシンプル。試合のシーンはリアルに作り込まれているが、話の展開自体は、ある程度先が読めてしまう。

ただ、この作品の本当の価値は、インドの、特に田舎における女性の社会的地位の低さと偏見についての指摘と、そうした女性たちも自らの意思で人生を選べるようになるべき、という提言にあるのではないだろうか。アーミル演じるマハヴィールは、自分の夢を娘たちに押し付けたというより、娘たちがレスリングを礎として自らの人生を切り開くための手助けをしたのではないか、と僕は感じた。

この映画は、「女性の自立」という視点で観るべきだと思う。

「バーフバリ 王の凱旋 完全版」

去年の春、割と何の気なしに「バーフバリ 伝説誕生」を観に行って、文字通りぶったまげて、去年の暮れに「バーフバリ 王の凱旋」を観に行って、文字通り感涙。日本でこんな風にインド映画を堪能できるなんて、と感慨にふけっていたのだが、まさか、今年も半ばにさしかかるまで全国各地の劇場での上映が続き、さらに本国仕様ノーカット版の「バーフバリ 王の凱旋 完全版」まで公開されるとは想像すらしていなかった。なんてこった(ほめてる)。

というわけで、今日の昼、新宿ピカデリーで王の謁見を賜ってきた。いやー、眼福眼福。国際版で省略されていた26分間のシーンが加わると、全体の流れにかなり余裕が出る。激しい立ち回りだけではない、麗しいシーンやお茶目なシーン、ちょっとしたディテールの埋め合わせで、よりどっぷりとマヒシュマティ・ワールドに浸れる作品になっていた。もっとも、アクション主体の小気味よいテンポで楽しめる国際版ならではのよさもあるので、あとは好みの問題だが。

インドから遠く離れた島国まで、こんなにも大勢の観客に愛される作品を届けてくれた関係者の方々に、感謝。バーフバリ、ジャイホー!

「バーフバリ 伝説誕生/王の凱旋」

2017年、少ないながらもそれなりにいろんな映画を観てきたが、最終的には「バーフバリ」の前後編2作が、なんかもう、ぜ〜んぶ持っていってしまったような気がする。

インドの架空の古代王国、マヒシュマティ王国をめぐる、愛と憎しみと戦いの物語。春に前編が公開された時は、確か新宿ピカデリーで、1日1回、1週間限定上映という形で始まったはずだ。僕はたまたまそれを観に行ったのだが、予想をはるかに上回る衝撃で……。超どでかいビッグウェーブにさらわれて、うっわあ〜と圧倒されっぱなしだった。評判が評判を呼び、前編は各地で拡大上映。満を持しての後編は、段違いに大きな規模での上映となった。僕自身、後編は公開初日の席をネット予約して劇場に向かったのだが、そうまでするほど観るのが待ち遠しいと思えた映画は、ずいぶんひさしぶりな気がする。

とにかく、すべての場面、あらゆる要素が、過剰すぎるくらい過剰。カッコよすぎるくらいカッコよく、美しすぎるくらい美しく、激しすぎるくらい激しい。でも、そうして盛りに盛られた(でも緻密に作り込まれている)場面描写のビッグウェーブにどっぷり浸っているのが、この上なく心地いい。現実離れしてるとか荒唐無稽だとか、そんな指摘にはまったく何の意味もない。まずは何も考えずに、観て、圧倒されて、茫然とする(笑)。それが「バーフバリ」の楽しみ方だと思う。ジャイ、マヒシュマティ!

「希望のかなた」

アキ・カウリスマキ監督の新作「希望のかなた」は、前作「ル・アーヴルの靴みがき」から始まった「港町3部作」改め「難民3部作」の2作目。前作はアフリカから来た不法移民の少年だったが、今回は戦乱に揺れるシリアから逃れてきた青年、カーリドが主人公。ハンガリー国境で生き別れとなった妹を探すべく、言葉も何もわからないフィンランドで難民申請をして、悪戦苦闘するカーリド。そんな彼と偶然出会った人々、一人ひとりのささやかな善意が、彼の行く先を少しずつ照らしていく……。

「ル・アーヴルの靴みがき」には意図的に現実離れした結末が用意されていたが、「希望のかなた」にはそれとある意味対照的な、一筋縄ではいかない展開がセットされている。世の中には善意を持つ人々が大勢いるけれど、理解に苦しむ悪意を抱く人もわずかながら(あるいは少なからず)いる。時には、そんな悪意の刃が、取り返しのつかない事態を呼び寄せることもある。

カウリスマキ監督がこの作品で描こうとしたのは、ある意味、そうした現実の構造そのものだったのだろう。彼独特の台詞回しと間合いと場面描写とで作品自体がフィクショナライズされていることで、かえって今の世界の生々しさと不条理さが浮かび上がってきて、後を引く。

それでも僕は、この「希望のかなた」の結末は、ハッピー・エンドだと思えて仕方ないのだ。僕たち一人ひとりが、これからの世界をハッピー・エンドに向かわせる努力をしなければならない。本当の希望は、たぶんその先にあるのだろう。

「パターソン」

米国ニュージャージー州パターソンに暮らす、街と同じ名を持つ男、パターソン。路線バスの運転手。毎朝同じ時刻に起き、横で眠る妻にキスをし、台所で一人シリアルを食べ、ブリキのランチボックスを手に、職場まで歩く。定刻通りにバスを発車させ、乗客を乗せて定められたルートを走り、休憩時間は滝の見える公園のベンチでランチ。仕事が終わるとまっすぐ家に帰り、妻との夕食の後、ブルドッグのマーヴィンを連れて、夜の散歩。途中、バーに寄り道して、一杯だけビールを飲む。

ジム・ジャームッシュ監督の新作「パターソン」は、平凡なバス運転手の1週間の日々を、淡々と辿り続けた作品だ。パターソンは、詩人でもある。彼は、妻以外には誰にも見せたことのないノートに、仕事の空き時間や、夜に家の地下室で、ペンで詩を書きつけている。映画の中で過ぎていくパターソンの毎日を追ううちに、詩というものは、日常の何気ない時間の中の至るところに、その兆しを潜ませているのだ、と我々は知る。この映画は、詩とはどこから生まれてくるのか、詩人はどのようにして詩を生み出すのか、それを描いた作品だとも言える。

パターソンを演じるアダム・ドライバーは、スター・ウォーズでダークサイドに堕ちていたのが信じられないくらい(笑)、寡黙な市井の詩人を魅力的に演じていた。彼なくしては、この「パターソン」は成立しなかったかもしれない。ジャームッシュ監督のストロング・ポイントが存分に発揮された秀作。今年観た映画の中では、一、二を争うくらい面白かった。