Category: Essay

卒業論文

今の時期、大学四年生の人はそろそろ卒論を提出する頃なのだろうか。自分が卒論を提出した時のことを、今でも時々思い出す。

大学時代、僕は本当に不真面目な学生で、授業もろくすっぽ出ず、評価も「可」に相当する「C」や「D」ばかり。スレスレで単位を取っているような状態だった。西洋史専攻だったので、卒論も何か歴史に関すること(当たり前だ)を書かなければならなかったのだが、思案した挙句、選んだテーマは「グラフ・ジャーナリズムの歴史的展開」。20世紀初頭、新聞や雑誌に写真が使われはじめた頃からの流れを、フォトジャーナリストたちの人生とともにまとめるという目論見だった。歴史といえば歴史だが‥‥(苦笑)。

とりあえず、書かなければ絶対卒業できないということで、資料をあれこれ突き合わせながら、どうにかこうにか3万字ほど書き上げ、年末の〆切までに提出。で、その少し後に、卒論の担当教授との面接審査が行われることになり、僕はなぜか、いの一番に呼び出された。問題児は最初に呼ばれるということか‥‥と、僕はすっかり観念して、研究室のドアをノックした。

ところが、担当教授は思いのほか上機嫌だった。

「山本君、これ、面白かったよ! 特にこの章のこの部分の表現が、洒落てていいね! それからここも‥‥」

え? これ、卒論の審査じゃ‥‥?

「でもね、面白かったんだけど、これにいい評価はあげられないなあ。これは論文というより‥‥読み物だよね!」

僕は椅子からずり落ちそうになった。そっか、論文じゃないのか‥‥(苦笑)。

「まあでも、読み物としては面白かったから、この論文は返却せずに研究室にキープさせてもらうよ。いいかね?」

そんなわけで、僕の「読み物」は無事に単位をもらって、研究室に保管されることになったのだった。今でも、あそこにあるのかな?

冒険家にはなれない

三年前に「ラダックの風息」を出して以来、「ヤマタカさんは、冒険家なんですね!」みたいな扱いをされることがよくある。間違いです。僕は、基本的にはヘタレなのだ。

重いカメラバッグを担いで、ラダックやザンスカールの山の中を歩き回ってはいるけれど、それはサポートしてくれる現地人の仲間がいてこそで、自分一人では、サバイバル能力のカケラもない。確かに、今まで何度か危ない目には遭ったが、それは想定外の悪天候などの要素も絡んでいるし、普段はできるだけリスクを冒さないように行動している。

うまく言えないが‥‥「一か八かの困難に挑戦して、それをクリアする」ことを「冒険」と呼ぶのなら、僕はそういう「冒険」を最終目標にする類の人間ではないのだと思う。僕がラダックやザンスカールの山々に分け入るのは、歩いてしか行くことができない場所にある風景や、動物や、人々に会いたいからだ。頂点に辿り着く達成感より、谷間を歩く愉しさを味わっていたいのだと思う。

なので、僕は冒険家にはなれない。

父とカメラ

富士フイルムが、X-Pro1という魅惑的なカメラを発表したというニュースをネットで知る。父が生きていたら、交換レンズも含めてごそっと買ってしまいそうなカメラだ(笑)。

ゴルフもパチンコも競馬もやらず、趣味らしいものもほとんどなかった父が、唯一と言っていいほど凝っていたのが、カメラだった。フイルム時代はキヤノンやミノルタを使い、デジタルに移行すると、(効率が悪いにもかかわらず)キヤノンとニコンの両方を担いで海外旅行に行くようになった。パソコンに写真をバックアップする環境作りについて、根掘り葉掘り聞かれたこともあったっけ。

可愛い孫たちを除けば、父が撮るのは、風景ばかりだった。高校の教師として働き続けた父。「人には疲れた。撮るのは風景でいいよ」と、前に僕にもらしたこともあった。安曇野にもう一つの家を構えて、山と自然を撮り歩いていたのは、そういう理由もあったのかもしれない。生まれつきの色覚異常で、色を見分けるのにも苦労していたはずなのに、そんなことは気に病むそぶりもなかった。

僕がしばらく前から写真も仕事にするようになったことを、父がどう思っていたのかは知らない。友人の方から、父が「いや、写真は息子には敵わないですよ‥‥」と笑って話していた、とは聞いたのだけれど。意外と負けん気の強い人だったから、そのうち自分もどこかのギャラリーで個展をやるぞ、というくらいには思っていたのかもしれない。

空の向こうで、父はどんなカメラで、何を撮っているのだろうか。

「書きたいこと」と「読みたいこと」

永井孝尚さんという方が書いた「会社員が出版社の編集者に会っても、なかなか本の執筆にたどり着けない二つの理由と、その克服方法」というブログエントリーを読んだ。

僕自身、以前「自分の本を出す方法」というエントリーで企画を練ることの大切さについて書いたことがあるが、永井さんのエントリーでも企画書の重要性が強調されている。加えて、本全体のストーリー構成力や、それを最後まで破綻なく書き切る力も必要だと書かれていた。プロの書き手にとっては常識に近いことだが、いつか自分の本を出してみたいと思い描いている人にとっては、参考になる内容だと思う。

ただ、一つだけ、「それはちょっと違う」と違和感を感じたことがある。

企画書を作る際のポイントは、「書きたいこと」ではなく、「読者が読みたいこと」を書くことです。当たり前のことですが、読者はお客様だからです。
(中略)
あくまで出版社からの商業出版をしたいのであれば、出版社もビジネスとしてリスクを取っているのですから、出版社のお客様である「読者が読みたいこと」を書くべきですよね。

永井さんには、「読者が読みたいこと」は商業出版にして、「自分が書きたいこと」は自費出版にすべき、という線引きがあるようだ。だが、僕はそうは思わない。自費出版は、少なくとも僕にとっては、出版社が抱えるさまざまな事情から、自分が思い描いたテーマや仕様での本を出すのが難しい場合に選ぶかもしれない選択肢の一つであって、「読者のニーズには合わないけど、自分が書きたいから」という場合のための手段ではない。

僕にとって本を企画する作業は、「自分が書きたいこと」を練りに練って、「読者が読みたいこと」に昇華していく作業だ。その両方が一致することが、幸せな本を作るために必要な条件だと思っている。出版社から企画を依頼された場合は、その企画の方向性を自分が納得できるものに近づけるための工夫と努力はするし、自分自身で企画を立てる場合は、「自分が書きたいこと」と「読者が読みたいこと」が一致しているという確信が持てなければ、出版社にプレゼンすらしない。

たとえ、それが売れそうな企画だからといって、自分が伝えたいわけでもない文章を書くことは、フラストレーションのたまる労働でしかない。本を書くことの本当の喜びは、自分が心の中で大切にしていることを書き、それを読者に届けて、ほんのちょっとでも心を動かすことに尽きると思うから。

連絡先の交換

僕が初めて一人で海外を旅したのは、22歳の時。その頃は、旅先で知り合って仲良くなった人がいると、帰国した後にやりとりするために、お互いの住所と電話番号を交換したものだった。それで、旅先から絵ハガキを書いて送ったりもしたっけ。何しろ当時は、インターネットなんてほとんど使われていなかったから。

30歳の時に半年間のアジア横断の旅をした時は、連絡先として交換するのは、名前とフリーメールのアドレスに変わっていた。それでしばらく互いの状況をメールで知らせて、別の街で再び合流できそうなタイミングがあれば連絡を取って落ち合ったり。昔に比べればずいぶん便利になったけど、旅先で偶然に再会する喜びは、ちょっぴり削がれたような気もした。

そして最近は、メールアドレスだけでなく、「Facebookでフォローしてもいい?」とも訊かれるようになった。今では、インドやヨーロッパにいる知り合いとも、ほとんどリアルタイムでやりとりできる。確かに、コミュニケーションの距離感はものすごく近くなった。でも、何か味気ない気がしないでもない。

異国の切手が貼られた絵ハガキを受け取っていたあの頃の方が、やっぱり嬉しかったな、何となく。