Category: Essay

井の中の蛙

二十代の後半くらいから、僕は雑誌の編集者としてのキャリアを積みはじめた。インターネットの専門誌とか、Macの専門誌とか。フリーになってからは、Webデザインの専門誌の立ち上げに関わったりもした。

専門誌の編集部で働いていると、その分野に関するものすごく密度の濃い情報が集まってくる。そうした情報の海に毎日首元までどっぷり浸かってると、世界がその色に染まっているかのような気分になってくる。スペシャリストとしての知識を貯えるには格好の土壌で、同僚にもそういう人が多かったと思う。

でも、当時の僕は、スペシャリストになるのを無意識のうちに避けていた気がする。知識は身につけるに越したことはないけれど、その分野のスペシャリストであることに満足して、井の中の蛙になってはダメだ。ほかの分野でも対応できるような幅の広さも身につけなければ‥‥と。だから僕は、PC系の雑誌のほかに、広告系やデザイン系、もっと地味な実用書系など、やれる仕事はあまり選り好みせずに挑戦していった。‥‥インドの山奥について書くまで間口が広がるとは思わなかったけど(苦笑)。

ある分野のスペシャリストであることは、編集者やライターにとって強力な武器になる。でも、その分野しかわからないけどまあいいや、と自ら割り切ってしまうのは、自分の可能性をただ狭めているだけだと思う。スペシャリストでありながら、井の中の蛙にならないでいることは十分実現できるはず。そういう意味では、自分はフリーになったことで方向性を限定され過ぎずにすんでよかったな、と思う。

今も、インドの山奥の某地方に詳しくなった自分を、これでよし、とはまったく思っていない。もっと学べること、できることはあるはずだから。

誰かのために

以前、社会で働きはじめたばかりの人や、これから社会に出ようとしている人たちと話をしていた時、「仕事って、何ですか?」という質問をされて、こう答えたことがある。

「誰かのために働く、ってことじゃないですかね」

すると、「いや、仕事というのは自分のためにするものでしょう!」という反応が返ってきた。確かに、それは間違っていない。自分がやりたいこと、大切にしていることを仕事に選ぶのは、とてもいいことだと思う。

でも、その「自分がやりたい仕事」が、「自分のため」だけで終わってしまったとしたら、もったいないな、と思う。その仕事の先に「誰か」がいて、自分が生み出したり成し遂げたりしたことを受け取ってくれるかどうかで、仕事の価値はまったく変わってくる。誰かのために何かをしてあげて、対価とともにささやかな感謝の気持を受け取る。人間の世界の仕事は、結局、そのシンプルなやりとりに尽きる。

そう考えると、誰かのために働ける仕事は、世の中にとてもたくさんあることに気付く。むしろ、世間的に華やかで報酬の割がいい商売ほど、往々にして、それが誰のためになっているのかはっきりしないことがある。また、その仕事によって、たとえほんのわずかでも、誰かが傷ついたり踏みにじられたりするのであれば、何の価値もないと思う。

誰かのために。そうでなければ、意味がない。

削り出す言葉

子供の頃の僕は、ご多分に漏れず、作文や読書感想文の宿題が嫌いだった。苦手ではなかったけど、いつもメンドクサイと感じていた。原稿用紙の升目に一文字ずつ字を書いて埋めていくのは手が痛くなるし、うまくいかなくなって消しゴムで消したらそれまでの苦労が無駄になるしで、こんなの何が面白いんだ、アホか、と思っていた(苦笑)。

そんな僕もおっさんになり(笑)、何の因果か、文章を書くことを生業にしている。最近思うのは、子供の頃に感じていた「作文」という作業に対する印象と、今の自分が文章を書く作業に対する印象はまったく違う、ということ。子供の頃の「作文」は、一つひとつの言葉を小石を積み上げるようにして書いていた。今の自分は、頭の中にぶわーっとある言葉を、彫刻刀で削り出すような感じで形にしている。たぶんそれは、鉛筆で原稿用紙の升目を埋めていくのと、パソコンのキーボードをカタカタ叩くのとの違いでもあるのかな。

言葉は積み上げるより、削って選び取る方が大変だなあ、と思いながら、今日も本の原稿を書いている。

本づくりに必要なもの

僕はこれまでに何冊か本を書いているけれど、本を出すまでのパターンには、おおむね二通りある。

一つは、出版社の知己の編集者さんから「こういう企画があるんだけど」と執筆を打診されるパターン。具体的なコンセプトが固まっている場合もあれば、ざっくりしたお題だけを振られる場合もあるし、前に雑談レベルで僕が話した内容が先方で企画化されて戻ってくる場合もある。このパターンでは、執筆を引き受けた後、僕の方で細かい構成案を組み、編集者さんと擦り合わせを行い、ゴリゴリと書き進めていく。「いちばんわかりやすい電子書籍の本」「人が集まるブログの始め方」「広告マーケティング力」といった実用系の本がこのパターンに含まれる。

もう一つは、僕自身が企画を作り、出版社に持ち込んで採用してもらってから本を作るパターン。「ラダックの風息」と「リトルスターレストランのつくりかた。」、そして今作っているラダックのガイドブックがこれに当てはまる。僕は基本的にひねくれ者なので(苦笑)、ラダックについての本のように、普通の人の発想だと採用されるのがちょっと無理めなテーマでも、あえて企画化して持ち込む。だって、それが書きたいんだから。昨日のエントリーにもつながるけど、僕自身も、ものすごく個人的な動機で本を書いている。

この間、ガイドブックの担当編集者さんと話をしていた時、「山本さんがあの時、すごく熱心にプレゼンしてくれたから、この企画は通ったんです。そういう熱意が、本づくりには一番大切なんだと思いますよ」と言われた。熱意はあっても、最低限の実力と周到な準備が伴っていなければ、いい本を作ることはできない。でも、何もかもを揃えた上で、最後の最後に必要なのは、やはり熱意なのだと思う。個人的な動機を、意地でも貫き通す熱意が。

そうして作られた本は、必ずしも万人に受け入れられる本にはならないのかもしれない。でも、その熱意こそが、本に魂を宿すのだと、僕は今も信じている。

バックパッカーとは何か

二十代の頃から、僕はあっちこっちの国をふらふらと旅してきた。そういう話を人にした時、「あ、じゃあヤマタカさんは、バックパッカーなんですね!」と言われたりすると、ちょっともじもじした気分になる。

そもそも僕は、自分はバックパッカーなのだと意識したことがほとんどない。バックパッカーって、何なのだろう? 世の中には、それが何か特別な存在であるかのように定義する人もいる。でも、僕からしてみれば、バックパッカーというのは「荷物をバックパックに詰めて、主に海外を旅している人」というくらいにしか思えない。強いて付け加えるなら、「パッケージツアーを利用せず、主に自分自身の力で手配をして旅している人」くらいだろうか。

バックパッカーになって旅をすること自体は、別に特別でも何でもない。それで誰かを助けたり、何かを生み出したりしているわけではないのだから。旅を通じて得た経験を、誰かのために役立てることができるかどうかは、その後のその人の生き方次第。すっかり無駄にしている人も、もしかしたらいるのかもしれない。僕自身、その経験を今に活かせているかどうか、自信はないけど。

だから僕は、「ヤマタカさんって、バックパッカーなんですね!」と言われたら、否定してしまうわけにもいかないので、「あ、そんな大層なもんじゃないんで、ほんとすみません」と謝ることにしている(苦笑)。