Category: Essay

本とブログの間を埋めるもの

最近考えていることを、まとまりのないまま、つらつらと書いてみる。

僕は、文章を書いたり写真を撮ったりして、それで本を作って世に送り出すことを仕事にしている。本以外では、ブログやSNSなどを使ったWeb上での情報発信もしている。僕の場合、本づくりとブログでの情報発信はまったく異質のもので、自分の中でもはっきりと区別している。ブログは、その時々の伝えたい情報や思うことを、わかりやすい形でタイミングよく発信していくためのもの。本は、自分が伝えたいことをきちんと突き詰め、徹底的に作り込んでいって、情報としても、モノとしても、ベストの形に仕上げ、ずっと後々まで残していくためのもの。そもそも、果たすべき役割がまったく違うのだ。

ただ、最近思うのは、この二つ以外の選択肢もあるんじゃないかな? ということ。ブログの気軽さと、本のモノとしてのよさとを併せ持ち、両者の間を埋めるような‥‥。最近、次第に注目されつつあるZINEやリトルプレスなどがそれに当たるのかもしれない。それで儲かるとはまったく思わないけれど、少なくとも赤字にならないような形で、ブログでも本でもない形の情報発信をすることの可能性は、検討する価値がある。実際、著名なフォトグラファーでもそうした取り組みをしている人はいるし。

一冊の本を仕上げるには、テーマによっては膨大な時間と手間がかかる。でも、その途上であっても、ブログ以外のきちんとまとまった形で情報を発信していくことはできる。来年以降の旅にまつわるプロジェクトは、もしかすると、そういう形になるかもしれない。

ひとり旅メシの愉しみ

異国を旅する時、僕の興味はだいたい二つのことに向けられる。写真を撮ることと、メシを食うこと。買い物とかにはあまり興味をそそられない方だ。そもそも、土産が入るほどバックパックが大きくない(笑)。

最近は、ガイドブックやネットから、どこの街のどこの店のどんなメニューがうまいとか、細かい情報がいくらでも手に入る。それを徹底的に調べて決め込んでから旅立つ人もいると思うが、僕はそういうのはあまり好きではない。その土地の名物は何なのか予習くらいはするが、どこで何を食べるのかは、結構、行き当たりばったり。でも、何となくふらっと入った店で、よくわからないままえいやっと注文して、うまいメシにありつけた時の嬉しさったらない。

当たる時もあれば、外れる時もある。昔、バンコクの街で地元民御用達の食堂に入り、前に並んでたすらっとしたお姉さんと同じガパオを注文したら、もうほんとに悶絶するほど辛かった(でも、そのお姉さんは平然と食ってた)とか。朝、ハノイの道端の露店でフォーを注文したら、よくわからないうちにドクダミの葉を投入されたりとか。「思ってたんとちゃう!」なんてことはいくらでもある。でも、それも、ひとり旅メシの愉しみなのだと思う。

ここ最近、ラダック界隈ばかりに行ってるからか、そういう一か八かの愉しみを、しばらく味わっていない気がする。そろそろ、どこかふらっと別の場所に行ってみるかな。

本づくりという博打

生まれてこのかた、ギャンブルの類にはほとんど手を出したことがない。

パチンコは思い出せないくらい昔、物珍しさに千円くらい使ってみたが、まったく面白さを理解できなかった(笑)。競馬も、麻雀も、まったく経験&興味なし。あ、五年ほど前にマカオに行った時、カジノで大小をやって、一瞬で100ドルすった記憶がある。つまり、博打に対する興味もなければ、勝負運もからきしという人間だ。

ただ、今の自分の仕事‥‥本づくりという仕事は、傍目には穏やかに見えるかもしれないが、博打に近い要素はかなりあると思う。Webで見かけた細田守監督のインタビューを読んで、映画と書籍という違いはあるにせよ、その辺のことをあらためて自覚した。

映画の価値は、有名な原作とか、有名な監督、クリエイターがやっているからじゃない。その映画に今まで見たことがない価値があるからでしょう。見たことのない面白さを提供することに価値があると思う。そういう価値がみんなと共有できた時に成功するんじゃないか。常に挑戦しないと映画を作る意味がないんですよね。じゃないと誰も振り向いてくれないですよ。‥‥という意気込みがあるんですけど、映画が常に挑戦であることはイコール博打なので、毎回々々どうなるかわからないです。

誰かの後追いではなく、常に新しいことに挑戦して、見たことのない面白さを提供すること。それはリスクを伴う博打で、当たるか当たらないかは本当に神のみぞ知る、だ。でも、安全牌だけ切り続けるようなやり方には、正直、さして興味はない。僕も、挑む気持を忘れないようにしたいと思う。

いい本だけど、売れない?

自分自身が作ってきた本も含めて、の話なのだけれど。

同業者と話をしていると、「あれ、いい本だと思うんだけど、売れないんだよねえ」といった話を時々聞く。僕自身、そんなことを口にした経験は何度もある。でも、あらためて考えてみると、それってどうなんだろう? と思わなくもない。「いい本だけど、売れない」のは、読者がそのよさを理解できないからではなく、企画から発売までの段階で、作り手が何かを読み違えたからではないだろうか?

「いい本で、しかも売れる」ための答えがはっきりわかっていれば、誰も何の苦労もしないのだが、もちろんそんなことはなく、結局、売れるかどうかは出してみなければわからない。ただ、ある程度経験のある編集者が関われば、その本の企画なら、全国的におよそどのくらい読者になりうる人がいて、どのくらいの数を刷ればその人たちに届くのか、いくらかは読めるようになる。たとえたいした冊数でなくても、そうして想定した数の読者にしっかりと届くように本を販売できたのであれば、僕はその本は役割を果たしたと思うし、「ちゃんと売れた、いい本」だと思う。ただ、そこからさらに読者が広がるかどうかは、ほんと、神のみぞ知る、だ(苦笑)。

付け加えるなら、個人的に「いい本」の条件だと感じているのは、「耐久力」だと思う。刊行から年月を経れば、細かい掲載情報が古びていくのは当然なのだが、それでも本質的な部分が劣化することのない本は、確かにある。ひっそりと、でも確実に読み継がれていく本。僕も、そういう本を作ることを目指したいと思う。

旅と写真とキャパと僕

昨日、横浜美術館で「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展を見て、思い出したこと。

世界でもっとも有名な報道写真家、ロバート・キャパ。僕にとって彼は、その短い生涯と作品を通じて、「写真家」という存在を意識するようになるきっかけを与えてくれた人だった。いや、それだけではない。僕の中で、「旅」と「写真」という二つの行為が分ちがたく結びつくきっかけを与えてくれたのも、キャパだった。

1992年の春、生まれて初めての海外一人旅。ザックの中には父が送ってきたありふれたコンパクトカメラと、何気なく買った文庫本が一冊。当時はたいして写真に興味のなかった自分が、なぜその一冊にキャパの「ちょっとピンぼけ」を選んだのか、今もよくわからない。神戸から上海まで船で渡り、シベリア鉄道でロシアを横断し、夜行列車を宿代わりにしながらヨーロッパをほっつき歩いた数カ月の間、何度もこの本を読み返した。祖国を追われ、危険な戦場に身を投じて写真を撮り続けた日々のことを、キャパはユーモアと優しさと、時に悲しみを交えながら書いていた。彼の文章を読んだ後に自分の目で見る未知の世界には、何かが透けて見えるような気がした。それが何かはわからなかったけれど、その「何か」に向けて、僕はシャッターを切った。

世界を自分の目で見るということ。それを写真という形で誰かに伝えること。いつのまにかその行為は、僕にとって、旅と切っても切り離せないものになった。もし、あの最初の旅に持って行ったのがキャパの本でなかったら、そんな風に考えるようにはならなかっただろうし、今のように写真を仕事の一部にするようにもならなかっただろう。そう思うと、キャパの「ちょっとピンぼけ」は、僕の人生に一番大きな影響を与えた本なのかもしれない。

半世紀以上も前に撮られたキャパとゲルダの写真を眺めながら、僕は、あの旅で感じた気持を思い起こしていた。