Category: Essay

100人中、何人?

僕は基本的にアマノジャクなので、世の中で100人中100人が「いい!」と言ってるものには、怪しんで近寄ろうとしないところがある。百万部のベストセラーの本とか、大ヒット街道爆進中の映画とか、ヘビロテされまくりの歌とか、長い行列のできるパンケーキ屋とか。それは感覚的にひねくれてるところがあるからだろうな、と自覚している。

文章なり写真なりで本を作る側の立場からすると、ビジネスの視点だけで考えれば、100人中100人が「いい!」と喜んで買ってくれるような本づくりを目指すべきなのかもしれない。でも、そうしたアプローチはほぼ間違いなく、うまくいかない。何を伝えたいのかがぼやけて、結局、面白くも何ともないものになってしまう。少なくとも、ひねくれ者の僕は、そういう本を面白いとは思わない。

少なくとも本づくりに関しては、作り手自身が面白いと思えるものをぶれずに目指すのが一番いいと思う。それが、100人中1人にしか届かなかったとしても、その1人の心をほんの少しでも動かすことができたなら、その本には、この世界に存在すべき価値がある。

自分で決める

先日の下北沢でのトークイベントに来てくれた方の一人が、Facebookに感想を書いてくれていた。あのイベントでは、僕や関さんが学生時代に経験した大きな挫折がきっかけになって、結果的に今の道に至ったという話をしたのだが、その人は「ああいう生き方は、そこで一歩を踏み出せるからできる生き方だ。自分には踏み出せない」と書いていた。

今の道から踏み出したら、何かを失うかもしれない。でも、踏み出さなかったら、手に入るはずだったものも永久に失われてしまうかもしれない。そういう決断は、時としてとても難しい。あえて踏み出さないことで守れる大切なものがあるのなら、そう決めることも一つの勇気だと思うし。

大切なのは、踏み出すか、踏み出さないか、自分自身できちんと決めることなのだと思う。どちらを選ぶか決めないまま、ずるずる生きてしまったら、結局、後悔しか残らない。自分で決めて選んだ道なら、たとえその先で失敗したとしても、「自分で選んだんだから、ま、しゃーない」と納得できるだろうから。

祖父が見ていた色

だいぶ前に亡くなったのだが、母方の祖父は、画家だった。学校で美術の先生の仕事をしつつ、大きな展覧会に入選したり、個展を開いたりしていた人だった。

僕を含めた親戚の子供たちは、時々その祖父のところに集められて、ちぎり絵を作ったり、郊外に写生に行ったりしていた。僕自身は絵が得意なわけでもなかったけれど、ある時、場所は忘れてしまったが、どこか屋外で写生をした時の出来事は不思議によく憶えている。

「高樹、あの木の幹は何色に見える?」
「茶色だよ。だって、木だし」
「本当にそうかな? よく見てごらん。あの幹の影は、藍色に見えないかな?」

そう言って祖父が、水で薄めた藍色を幹の部分にさっとのせたので、まだ小さかった僕はびっくりしたのだった。

空は水色。雲は白。木の葉は緑で、木の幹は茶色。世界の色はそう決まっているのだと、あの頃の僕は思っていた。でも、世界はそんな風には決まっていない。光も色も、音も、匂いも、手ざわりも、その時々ですべて違っている。世界を写し取って誰かに伝えるには、ありのままの姿を感じ、捉えなければならないのだと、祖父は僕に言いたかったのかもしれない。

あれから長い年月が過ぎ、僕は何の因果か、絵ではないけれど、写真や文章を仕事にするようになった。うまく撮ったり書いたりできなくて悩んでいる時、ふと、この出来事を思い出すことがある。そう、この世界は、何一つ、決まってなどいないのだ。

「拠り所」について

人が生きていく上で、何かを「拠り所」にするのは、けっして悪いことではないと思う。何を拠り所にするかにもよるが。

有名な大学を出ているとか、誰もがうらやむ企業で働いているとか、本人がそれに見合う実力を持っていれば別に問題ないけれど、肩書きに負けてるようならたいした意味はない。何らかの理由で裕福だとか、外見の美しさに恵まれているような人も、内面が伴っていなければ、いささか残念なことになるだろう。流行りのブランドの服やバッグを持っているとか、FacebookやTwitterのフォロワーが何人いるとか、そんな吹けば飛ぶような物事には、もちろん何の意味もない。

何かの分野のスペシャリストという人でも、その分野が廃れてしまったら応用が全然利かないような守備範囲の狭さなら、そのうち困ったことになるはずだ。たとえば僕の場合、それはラダックということになる。ラダック以外、写真も文章も使い物にならないようなデクノボーではまずいわけだ。当たり前といえば当たり前すぎるけど。

そう考えていくと、人が生きていく上で拠り所とするべきなのは、周囲がどんな状況になってもさほど左右されない能力や経験の蓄積と、一人の人間として真っ当な価値観とバランス感覚を持つことなのだろうと思う。結局、自分自身なんだろうな、拠り所って。

人の価値

それぞれの人の価値というのは、結局のところ、誰かに何かをしてあげられているかどうか、なのかもしれない。

一曲の歌で世界中の人々を感動させられる人。オリンピックでメダルを取って国民を熱狂させられる人。何世代にもわたって読み継がれるベストセラー小説を書ける人。何万人もの社員を養う大企業を創業した人。そういう人たちはすごいんだろうというのは、まあ、わかりやすい。

でも、自分の子供を日々大切に守り育てる父親や母親、地味でも社会を支えるのに欠かせない仕事に黙々と取り組む人も、わかりやすく華々しい活躍をする人と同じか、それ以上にすごいと、僕は思う。病の床に臥している人でも、生きることそのものが、その人を大切に思う人たちの心の支えになっているはずだ。

価値のない人というのは、自分自身のことしか眼中になくて、他人を欺いたり傷つけたりすることに何の痛みも感じないような人。そういうろくでもない人以外、たいていの真っ当に生きている人たちの人生には、すべからく価値があるのだと、僕は思う。

だから、日々を当たり前に、真っ当に、心のどこかで誰かを思いながら、生きていけばいい。