Category: Essay

ネガティブ・ツイート

Twitterについて、ちょこっと思うところがあったので、覚え書きとして。

最近では個人だけでなく、商店や飲食店、企業など、いろんな組織の公式アカウントが運用されている。かしこまった情報発信に徹するアカウントもあれば、利用者との距離感を縮めて親近感を持ってもらうために、くだけた感じでざっくばらんな、結構ぶっちゃけた投稿をするアカウントもある。

たとえば、商店の公式アカウントで、お客さんが来なかったり、売れ行きが悪かったりすることをぼやくツイートをする場合がある。ぼやくこと自体はまったく問題ないと思う。「きついけど、がんばります!」というツイートを見て、「だったら応援しに行こう」と考える常連さんもいるだろうし。

ただ、「お店をのぞきに来る人は多いけど、誰も買っていかない」など、ネガティブな波動をお客さんの方向に向けてしまうようなぼやきツイートはよくない。それはお客さんのせいではなく、商品をレジまで持ってきてもらえない何らかの原因がお店の側にあるからだ。逆に、まとめ買いしてくれたお客さんをカミサマ扱いして崇め立てるようなツイートもよくない。支払った金額でお客さんの価値をお店が決めるのは変だからだ。いずれにせよ、どちらのツイートの場合も、お客さんの立場の人から見たら、嫌な気分になるだけだと思う。

というわけで、心ゆくまでぼやきたいなら、個人の鍵付きアカウントをおすすめします。

心の基準点

「長い間、旅に出ていると、日本や日本食が恋しくなったりしませんか?」という質問をよくされる。僕自身は、生まれてこのかたホームシックというものを感じた経験は一度もないし、旅先で日本食が恋しくなった経験も全然ない。

ただ、「帰国してからどういう時に、日本に戻ってきたなあと感じますか?」と聞かれると、リトスタに行って、ビールを飲みつつ、好きなものをあれこれつまんでいる時かな、と思う。旅に出る前の日の夜と、帰ってきた日の夜、定休日や貸切でなければリトスタに行って晩ごはんを食べるのが、僕にとっては一つの儀式のようになっている。

リトスタには旅の前後だけでなく普段からよく行っているのだが、たぶんそれは「ほっとしたいから」なのかな、と最近思うようになった。自分の現在位置を確認する、心の基準点の一つになっているというか。東日本大震災の頃に東京で余震が続いていた時期もそうだったし、先日のパリでの無差別テロなどで気持がどんよりしているような時も、リトスタに行ってごはんを食べると、どこかしらほっとして、我に返る部分がある。

東京での自分の心の基準点がリトスタなら、ラダックでの心の基準点は、ノルブリンカ・ゲストハウスだ。今年の夏も、宿に着いて荷物を置き、台所でチャイをすすっていると、不思議なくらいすべての時間と感覚が巻き戻って、自分がしっくりとあの土地になじむのを感じた。たぶんそれは、楽しい時間を共有してきた記憶だけでなく、2010年の土石流災害の時のようなつらい時間も分かち合ってきた人々がいてくれる場所だからだろう。

心の基準点と呼べるものをいくつも持っている僕は、きっと、幸せなのだと思う。そうした基準点には、人それぞれ、いろんなものがあるはずだ。家族が待つ家での団らん、気のおけない友達との長電話、恋人と歩く散歩道。でもこの世界には、そういう何気ない基準点すら持てないでいる、つらい境遇を強いられている人々がたくさんいる。そういう人たちが世界各地にいることを忘れないこと。どうしたらその人たちの境遇を変えられるのかを考え続けること。心の基準点は、自分自身のためだけでなく、誰かのために何かをする時にも大切になるんじゃないかな、と僕は思う。

「妬み」について

自分が仕事をしながら生きていく上で、他の誰かから「妬み」という感情を持たれるなんて、金輪際ありえないだろう、としばらく前まで思っていた。でも、たぶん数年前、自分自身で書いたり撮ったりして本を作るようになった頃から、ほんの時折、そういう予想外の波動を感じるようになった。

「妬み」の原因と構造は、案外シンプルだ。相手より自分の方がセンスや実力や経験値が上なのに、相手の方が周囲から不相応に評価されて、自分よりおいしい思いをしているのが面白くないから、とか。煎じ詰めればだいたいそんな感じ。たいていの場合、そういう人の自己評価はどこかしらズレているか、よくても実力はせいぜい相手とどっこいどっこいのレベルだと思うのだが。

「妬み」を感じること自体は、別に悪いことではない。その悔しさをバネに実績を伸ばす、負けん気の強い人はたくさんいる。ただ、困ったことに、その「妬み」をネガティブな方向に発散させてしまったりする人もたまにいる。相手に対する不当な圧力や妨害、第三者に向けての中傷、ネットを使った匿名の中傷‥‥。そんなことをしても自分の評価は上がるわけがないし、単に自分自身の心を貶めるだけなのに。

「妬まれる」側にも、問題があるのかもしれない。世間の評価に実力が伴っていないのかもしれない。たとえば僕の場合は、評価も実力も稼ぎもいずれもいまいちなので(だから妬まれる理由がわからないのだが、苦笑)、「妬み」を完全に回避するには、そういう感情を相手が持つ気にならなくなるくらい、実力を伸ばさなければならない。でも僕は、持って生まれた乏しい能力をこれ以上伸ばすのは無理なので、自分の携わる分野で、小さな結果を気長にコツコツ積み上げていくしかない。誰も追随する気が失せてしまうくらい、淡々と、コツコツと。

まあでも、その前に、仕事に関わることで誰かを妬むなら、心底くだらない中傷や裏工作に走ったりせず、自分の仕事でそれ以上の結果を出して跳ね返してみせろや、とは一応言っておきたい。ほんと、くだらないことはやめましょう。

バンコクの電車

タイの首都バンコクは、周辺部を含めると人口が1500万人近くに達する巨大都市。街を行き交う車の数はすさまじく、どこもかしこも常に渋滞。場所や時間帯にもよるけれど、タクシーやトゥクトゥクでは、いつまでたっても目的地に着ける気がしない(苦笑)。だから先日の取材中は、常にBTS(スカイトレイン)とMRT(地下鉄)を軸に、必要に応じてチャオプラヤー・エクスプレス・ボートを組み合わせて街の中を移動していた。

BTSやMRTの車内はキンキンにエアコンが効いていて、椅子などもとても清潔。液晶モニタに流れる広告には日系企業のCMも多い。乗客たち、特に若い子たちはみんな、一心不乱にスマホをいじっている。そんな感じの車内なので、時々、東京で電車に乗ってるような錯覚に陥りそうになる。

ただ、一つ大きく違うと感じたのは、停車駅で年配の人や小さいお子さん連れの人が乗ってくるたびに、それまでスマホをいじってた若い人たちが、スパッ!と立ち上がって席を譲っていたことだった。体力的に弱い立場の人を丁寧に気遣う彼らの態度は、仏教を篤く信仰する国だからというのもあるだろうが、東京の電車内の風景とはずいぶん違う。東京はほんと‥‥バレバレなのに寝たふりしてる若い人とか、結構いるし。

この点において、バンコクは東京に圧勝だなあ、と思う。

込めるのは、気持か、心か

昨日の夜、ふっと思い浮かんだことなのだのだけれど。

文章を書いたり、写真を撮ったり、あと、絵画や音楽やその他いろんなものづくりをする時には、「自分自身の気持を込める」ことが大事だ、とよく言われる。もちろん、状況や求められるものによって違いはあるだろうけど、必要なクオリティを保った上で、その時その時の気持や感情をどれだけ表現できるかというのは、確かに重要なスキルなのだと思う。

ただ、僕自身だけに関して言えば、経験上、自分の気持や感情を写真や文章に込めようとして、うまくいった記憶がほとんどない。うっかりそうしようとすると、水が多すぎて炊き上がりがべしゃべしゃのごはんみたいになってしまう(苦笑)。理由は簡単、要するにヘタクソなのだ、感情表現が。

僕の場合、写真や文章に込めようとしているものがあるとしたら、その時その時の感情というより、もう少し胸の奥の方にもやっとある、心というか、思い入れというか、そういうものなのだろう。それはどうにも直接的に表現しづらくて、変な話、無心に黙々と一生懸命取り組むことで、やっと、そこはかとなく宿るかどうかというものだと思う。

こんなことをあらためて考えたのも、この間読み終えたある本が、抑制の効いた筆致で淡々と書かれていながらも、本当に真心のこもった、素晴らしい文章だったからだ。そのレビューは、またあらためて。