Category: Essay

縦位置と横位置

ブータン取材で撮影してきた写真を現像しながら整理していて、これはまあまあいけるかな、と思えるものをピックアップしていたら、なぜか縦位置の写真ばかりになってしまって、自分でもちょっとびっくりした。

一般的なデジタル一眼レフカメラで撮る写真は、だいたい3:2の比率になり、普通に構えて撮れば横位置、縦に構えて撮れば縦位置になる。僕は基本的に昔から横位置の写真が好きで、縦位置で撮ろうと考えることもあまりなかった。だから縦位置の写真は苦手というか、ぶっちゃけ下手だった(苦笑)。

ところが、必要に迫られて仕事で旅の写真を撮るようになると、下手ですませるわけにはいかない。本や雑誌の仕事では、縦位置の写真のニーズは一般の人が想像する以上に多いのだ。だから、ちょっとでも余裕のある撮影場面では、横と縦の両方を押さえる癖がついたし、苦手を克服しようと縦位置での構図の作り方をいろいろ試行錯誤するようになった。そうした試行錯誤の成果が、ようやく最近になってちょっとずつ現れてきたということなのだろうか。まだ得意とまでは、とても言えないけれど。

そういえば、以前「撮り・旅!」で鮫島亜希子さんにインタビューさせてもらった時、「いい被写体に出会った時、横位置で同じような写真をがしがし撮ってしまいがちだけど、そういう時に意図的に縦位置でも撮ってみて一呼吸おくと、自分が何を撮りたいのかがわかってくる」という意味のことを話していただいたのだが、それは本当に正しいと思う。冷静さを取り戻すのに、横から縦へのスイッチというのはかなり効果的だ。

去年見たドキュメンタリー映画で知った写真家ソール・ライターは、映画の中でも頑ななまでに縦位置の写真にこだわって撮り続けていたのが印象的だった。ミラーレス一眼カメラを、最初から縦位置にして持ち歩くほどに。彼の見事な縦位置の作品群にちょっとでも近づけるように、日々精進していかねば。

キュレーションメディアについて思うこと

旅のキュレーションメディアの編集部と名乗る人から、メールが届いた。自分たちのサイトで記事を書いてくれないか、という。特に僕という人間を特定しているわけでもなく、誰に送っても当たりさわりのない(テンプレート通りの)内容のメール。とりあえず条件を開示してほしいと答えたら、すぐに(テンプレート通りの)返信が届いた。

その編集部の人曰く、
・旅に関するネタならほぼ何でもOK(観光地、グルメ、ホテル、アクティビティ)。
・自分のブログに書いている記事のリライトでも構わない。
・納期の指定はなし。いつ書いてもいい。
・1本の記事に写真を10枚以上使用。
・原稿料は、記事10本で6000円。

「写真を10枚使用したWeb記事が1本あたり600円」という価格設定を適正と考える人も、もしかすると世の中にはいるのかもしれない。ただ、一応、文筆業でこれまで何十年か生きてきた立場から言わせてもらうと、Web記事であることや新規取材が発生しないことなどを考えあわせても、この値段、相場の10分の1以下。20分の1か、それ以下でも全然おかしくない。

こんなひどい条件でも、何かしらの名前を冠するキュレーションメディアに記事を書いて、ライターと呼ばれる職業の人間になりたいという人は、世の中にいるのかもしれない。だからそれを非難したり止めたりはしないけど、ライターに必要なキャリアの蓄積にはまったくならないであろうことは断言できる。世の有象無象のキュレーションメディアの大半は、記事がでたらめとかでないかぎり(実際はでたらめも多いけど)、内容や質に関してはどうでもいいと考えている。自分たちが糊口をしのぐためのページビューをちまちま稼ぐことができさえすれば、それでいいのだから。

本当に文章を書くのが好きなら、写真を撮るのが好きなら、その大切な文章や写真を二束三文で有象無象の輩に売り飛ばすより、自分自身のサイトをきちんと作って公開したり、リトルプレスやZINEの形にしたりした方が絶対にいい。どういう「届け方」をするのかも、文章や写真にとってはとても大事なことだから。その文章や写真に何らかの価値や思いが宿っているなら、きっと誰かのもとに届くし、それによって何かが変わるはずだと、僕は思う。

バトン(reprise)

僕らはみな、誰かから受け取ったバトンを手に、何処かに向かって走り続けている最中なのだと思う。

何かを諦めるしかなかった人。この世界から立ち去っていく人。いろんな人から手渡されたバトン。受け取った、と勝手に思い込んでいるだけのバトンもあるかもしれない。それでもそれは、人が走り続けようとする理由にはなる。

そうして、しゃにむに走り続けていた人にも、いつかは、別の誰かにバトンを手渡さなければならなくなる時が、必ず来る。

だから僕は、いつか自分にその時が訪れるまで、走れるだけ走り続けようと思う。どんなにのろくて、ずっこけたりして、みっともなかったとしても。次の誰かに、バトンを手渡すまで。

編集者が守るべきもの

編集者、特にフリーランスの人が、何よりも守らなければならないのは、他のスタッフの立場なんじゃないかな、と思う。

ずっと以前、ある出版社から本の編集の実作業の仕事を請け負った。著者とのやりとりは出版社側の編集者が仕切っていたのだが、うまくスケジュール管理できていなかったようで、原稿が揃うのが大幅に遅れた。すると出版社側はその遅れを、全部こちらの編集とDTP作業のスケジュールを切り詰めることで埋め合わせようとした。折しも年の瀬で、それに従うと、クリスマスも年末年始もまったく休めないというスケジュールになる。僕はともかく、他のスタッフにそんな理不尽なことを無理強いするわけにはいかない。僕はその指示を拒否して、関係者が多少なりとも休めるように交渉し、それを通した。

プロならクライアントの利益を守るのを最優先すべきなのでは、という意見もあると思う。でもそれは、関係者に「それならひと肌ぬぎましょう」と意気に感じて言ってもらえるようなちゃんとした理由があればのことだ。明らかに理不尽な理由で他のスタッフにスケジュールや作業負担やギャラのしわよせが及びそうな時、彼らを守れる立場にいるのは、間に立っている編集者しかいないし、それでも無理な場合にはスタッフに対して「本当にすみません!」と必死で頭を下げるのも編集者しかいない。

そんなことを考えながらやっているので、僕は今までに少なくとも1社、クライアントを失っているが、そんな取引先とはどのみち長くは続かないし、いい仕事もできないので、まったく、1ミリも気にしていない。その会社自体、なくなっちゃったし。世の中そんなものである。

自分の写真展について考えたこと

今年はひさしぶりに、単独で写真展をやることにした。春先に新しい本を出すので、そのタイミングに合わせて。ここ数年、ラダック、ザンスカール、スピティで撮影してきたものを中心に、それ以前からの代表作も織り交ぜて展示しようと思っている。

会場は今のところ、2カ所を予定している。どちらも、友人が経営する飲食店の店内だ。それぞれ展示内容は異なるが、一方では約2カ月、もう一方でも約1カ月と、写真展としてはかなり長期間の展示になる。

もともとは、数年前から「次にラダックの写真展をやるなら、展示専用のギャラリーで、大きくて高画質なプリントのパネルをずらりと並べるような展示にしたい」と考えていた。メーカー系のギャラリーの公募にかたっぱしからあたってみようとか、もっと高く付くけど開催時期の調整に融通の利く私営のギャラリーはどうだろうかとか、いろいろ模索していた時期もあった。ただ、そうやって検討を重ねているうちに、なんとなく自分の中で違和感が芽生えてきていたのも事実だった。

僕はそもそも、どうして写真展をしたいんだろう? 誰に、何を伝えたいと思っているのだろう? もしかして、ただ単に自分自身の虚栄心を満たそうとしてはいないだろうか?

専用のギャラリーで高品質なパネルを並べて展示すれば、確かにそれによって伝えられる感動はあるかもしれない。でも、よほど立地条件のいいギャラリーでないかぎり、そういう展示にわざわざ足を運んでくれるのは、写真を見るのが好きな人や、すでにラダックに強い興味を持っている人にしぜんと限られてくる。期間もせいぜい1、2週間が限度だし、来たくても来れずに終わる人も少なくないかもしれない。

僕はむしろ、ラダックのことをほとんど知らない人や、写真にもあまり関心のないような人にこそ、自分の写真をきっかけにラダックに興味を持ってほしいと思っているのだ。極端な話、ヤマモトタカキが誰だとか、知ってもらわなくても構わない。この世界に、こういう場所があるのだと、ただそれを伝えたいだけなのだ。

そこまで考えがほぐれると、結論はおのずと見えてくる。今度の新しい本に合わせて写真展をやるなら、自分のルーツに一番近い場所で。誰でも気軽に来れて、何も知らずに来た人もちょっと興味を惹かれるような、さりげないけど、じわじわくる、そういう展示。それを、できるだけ長い期間、じっくりと。この世界に、こういう場所があることを、まっすぐ伝えるための写真展。

僕の伝えたいことは、たぶん、根本的なところは昔からずっと変わっていない。写真展でそれを伝えるには、少なくとも自分にはこのやり方が一番合っている。今はそう確信している。

というわけで、もうすぐ、やります。お楽しみに。