Category: Diary

人見知りのままで

半世紀近く生きてきて、ようやくはっきりと自覚したのだが、僕は根本的に、人見知りなのだと思う。

年がら年中、国内外で初対面の人に取材しまくってるくせに、と言われそうだけど、取材の時は仕事と割り切ってるので、業務モードのうっすらとした仮面をつけてふるまっている。だからそこそこ無難に立ち回れるのだが、たまにどうしようもなく「あ、この人、絶対に合わない」という人に取材先で出くわしてしまうと、自分の中の拒絶反応を抑えるのにものすごく苦労する。たぶん、2割くらいは表に出ちゃってるんだろうな(苦笑)。

業務モードでない時は、多人数の飲み会とかもごくたまに勇気を振り絞って足を運んではみるのだが、たいてい一番隅っこの席に逃げ込んで、一人でビールを飲みながら「時よ早く過ぎろ」と念じている(苦笑)。知ってる人ばかりだと大丈夫なのに、やはり初対面の人には気後れしてしまう。

でもまあ、それはそれでいいか、と思う。別に、他人との出会いをシャカリキに求めてるわけでも、自分を認めてほしいと渇望してるわけでもないし。自分は自分。やるべきことを淡々と積み重ねながら、毎日を生きていく。繋がる人とはいつか繋がるし、繋がらない人とは無理に繋がる必要もないし。

明日も、明後日も、淡々と、生きていこう。

余白の時間

何日かぶりに丸一日、家にいられた。先週から手元にたまっていた取材原稿も、深夜にちまちま書き進めておいた甲斐あって、だいぶ片付いてきた。ようやく、手綱をたぐり寄せることができた気がする。

コーヒーを淹れたり、晩飯にスープを煮たり、腕立て伏せをしたり、本を読んだり。何気ないことを、ゆったりとやる。そういう余白のような時間が、ずっと必要だった。余白の時間があるからこそ、ぼんやりとあれこれ考えごとができるし、その中から、ぽん、とアイデアが浮かんだりするし。

しばらく前に浮かんだアイデアは、我ながら、なかなかいい。もうしばらくぼんやりしながら、この生みたての卵みたいなアイデアを、温めることにしよう。

———

ジェームス・ワット「ビジネス・フォー・パンクス」読了。破天荒な戦略で急成長したスコットランドのクラフトビール会社、ブリュードッグ創業者の書いた本。ビジネス書というより、純粋に彼と彼の仲間たちの生き様の本だと思った。「人の話は聞くな、アドバイスは無視しろ」……ふりかえってみれば、自分もそうだったかも(笑)。サクサクと小気味よく読める本だが、編集者として気になった点が2つ。1つは、僕が手にしたのは4刷目の本だったのだが、それでも結構な数の初歩的な誤植がまだ本文中に残っていたこと。もう1つは、よりによって自分はビールを飲めない(!)とのたまう大学の先生に、長々と解説文を書かせているということ。

「どぶ汁」堪能

昨日の夜は、新刊「ラダック ザンスカール スピティ[増補改訂版]」の制作チームでの打ち上げ。八丁堀の出版社の近くにある海鮮居酒屋にて。

供されたのは、北茨城の漁港から直送されるという魚介の数々。かれいその他の刺身盛り合わせ、平目のえんがわの煮付け、あんこうの刺身、あん肝の天ぷら。そして〆はあんこう鍋。現地では「どぶ汁」と呼ばれる漁師料理だそうで、具は大根とネギ以外、あんこうの各部位とあん肝だけ。水はいっさい入れないそうだ。ものすごく濃厚に見えて、すすってみると意外とさっぱりとした旨み。残りの汁で仕立ててもらった雑炊がまた絶品だった。

生まれてこのかた、これだけ一度にあんこうを食べたのは初めてだったのだが、何だかくせになりそうだ。いつかまた、一冊いい本を作り終えることができたなら、また「どぶ汁」を食べに行こうと思う。

「意見」を読む前に「事実」を知る

今日の取材中、本筋とは関係のないところで、こんな話が出た。

最近、世間に出回っているニュース記事の類には、ニュースというより、それを書いた人の「意見」になってしまっているものが少なからずある。個人のブログであれば根拠のない誹謗中傷でもないかぎり好きに書いていいが、大小問わずメディアの名を背負う者の書く記事であるならば、まずは確固たる裏付けのある「事実」を提示すべきだ。その上で意見表明をしたいのであれば、社説など記名記事の場で論じればいい。

日頃からニュースを読む僕たちの側も、フェイクニュースやデマや扇動の類に惑わされないように、どの記事が真実を伝えているのかを見極める力が必要になる。そのためには、他人の「意見」を読んで安易に鵜呑みにする前に、何が「事実」なのか、客観的な視点で情報を集めて、自分自身で考える習慣を身につけなければならない。

自分の願望と同じ「意見」ばかりを集めても、「事実」の積み重ねである現実を見通すことはできない。

多様性と平行線

一昨日、取材の中で、こんな話題になった。

最近、ニュースなどでよく聞く「多様性」(diversity)という言葉。国籍や人種、性別、宗教、その他の内面的な価値観や意見の異なる人々が、この世界には混在する形で共存していることを指している。ただ最近は、「多様性を認めるべき」という言い方が、ともすると「異なる価値観や意見を持っている人ともわかりあうべき」というニュアンスで使われていることも多いという。

この「わかりあうべき」という考え方は、正直、かなりズレているように思う。というのも、世の中には、どれだけ互いに努力しても、どうしてもわかりあえずに平行線を辿るしかない関係にある人々が、必ず一定数以上はいるからだ。そういう人々とは、お互いにできるだけ干渉せずに平行線のままでいた方が、たいていうまく共存できるはずだ、と。

ある一つの考え方が、唯一無二の正しい答えであるとは限らない。正確な事実に基づいた論拠があれば、別の考え方もまた正解なのだ。その場合は、それぞれの論拠を確認し、認めないまでも、尊重しなければならない。

世の中には、本当にたくさんの、平行線のままでしか共存し得ない人々がいる。その時に忘れてはならないのは、地球上のすべての人間には、守られるべき尊厳と人権があるというルールだ。自分たちの価値観を強要しようとして、相手の尊厳を故意に傷つけたり、人権や身の安全をないがしろにしたりするのは、論外だ。巷に蔓延しているヘイトツイートやヘイトスピーチ、悪意のあるデマの類は、その域を完全に超えている。国会議員にすらそれに加担している輩がいるという事実が、この国の病の深刻さを物語っている。

平行線は、平行線のままで。無理にわかりあわなくてもいいから、お互いの尊厳と人権を、尊重して。