Category: Diary

ゴールデンキウイ

去年くらいからだと思うが、家でキウイフルーツを割とよく食べるようになった。年がら年中というわけではなく、ちゃんと熟したものが出回っていると思われる、春から秋にかけての時期だけど。

キウイフルーツは、果肉が緑色のグリーンキウイと、やや黄色がかっているゴールデンキウイの2種類にだいたい分かれている。昔から馴染みのあるのはグリーンの方だが、最近個人的に気に入っているのは、ゴールデンの方だ。果肉がより柔らかくて、甘みが強い気がする。含まれている栄養価も、ゴールデンキウイの方がやや高めらしい。その分値段も高めだけど。

比較的まめに自炊をしてるとはいえ、おっさんの一人暮らしだとどうしても栄養バランスが偏りがちなので、キウイフルーツとかを食べるのを習慣づけた方が、ビタミンやら食物繊維やらポリフェノールやらを手っ取り早く摂取できる。おかげで最近、体はだいぶ調子がいい。

ちなみにキウイフルーツについてネットで調べてみると、もともとは中国原産のマタタビの一種だそうで、百年ほど前にニュージーランドで品種改良されて栽培されるようになった果物なのだそうだ。まさかのマタタビの仲間。ある意味ものすごくどうでもいいトリビアを取得してしまった。

青山ブックセンター六本木店

青山ブックセンター六本木店が、6月下旬に閉店になるというニュースが流れてきた。

田舎の高校を卒業して上京してきたばかりの頃、六本木の青山ブックセンターは、僕にとって憧れの書店だった。デザインやアートや写真の本がずらりと並び、他では見たこともない雑誌や洋書にも、あの店でなら出会える気がしていた。六本木という街自体、僕には敷居が高すぎて、なかなか足が向かなかったが、逆に、何か用事があって六本木の近くに来た時は、必ずと言っていいほど立ち寄る書店でもあった。

大学を卒業した後、僕はじたばた苦しみもがきながら、少しずつ少しずつ、記事を書いたり、雑誌や本の編集に携わったり、自分自身で本を書いたりするようになった。その成果物である雑誌や本が、六本木の青山ブックセンターに並べられているのを見かけると、こんなことがあるのだなあと、不思議な、ふわふわした気分になった。

そんな憧れの書店だった場所が、38年の歴史に幕を閉じる。十数年前にも親会社の破産などで一時閉店になったりした時期があったから、寝耳に水というほどの驚きはない。ただ、本が本として大切にされていた場所が、また一つ減ってしまうのだなあと、寂しい気持にはなる。

僕は、本に対して、何ができるのだろう。

大型連休とやら

気がつくと、五月の大型連休とやらが、すっかり終わってしまっていた。

連休の間、僕はずっと東京にいて、ほぼずっと原稿を書いていた。直前の週に合計8件の取材が入り、連休の谷間にさらに3件取材が入った。いつもより〆切を伸ばしてもらっているとはいえ、書きまくらなくては到底追いつかない。世の中が休みの日は余計なメールや電話で邪魔されないというのが、唯一の救いだった。それでも前半にシャカリキに書きまくったおかげで、後半は少しだけ余裕ができて、街に出てひさしぶりにアウトドアウェアの買い物をしたり、スコティッシュパブでビールやウイスキーを飲んだりもできたが。

でもまあ、個人的には、連休が原稿でほぼ全部すっ飛んだことよりも、いつのまにか2018年がもう三分の一も終わってしまっていたという事実の方が、衝撃的だったりする。まじか……(汗)。今年は特に直近の三カ月が、本の編集作業と発売に際してのあれこれと大学案件の繁忙期とで、めちゃくちゃに忙しかった。しかし、今年は来月の方が、別の意味でさらに大変だったりする。どうなっちゃうんだろ、俺の2018年。

家のかたち

10日ほど前、郵便受けに一枚の紙が入っていた。近所にある家の取り壊し工事が始まるので、作業中はご迷惑をおかけします、という案内だった。

僕が住んでいる界隈は住宅街で、中には相当古くて建物自体に問題のありそうな家も少なくなかったから、たぶんそういう家の取り壊しだろうと思っていたのだが、いざ工事が始まってみると、僕の住んでいる部屋から生垣と細い道路を挟んで斜向かいにある家だったことがわかった。けっして新しくはなかったが、別にボロくなっていた印象もなく、軒先と塀の間に植えられた木々も丁寧に手入れされていた。住人の方との面識はなかったけど、感じのいい家だなあ、といつも思っていた。

鳶職の人たちが威勢のいい掛け声を交わしながら、家の周囲に鉄パイプの足場を作り、防護用のビニール幕を張り巡らす音が聞こえてきた。翌日にはトラックがウインカーを鳴らしながら重機を運び込み、それから数日、昼の間は、バリバリバリ、という破壊音が間断なく響き続けた。そして再びトラックがウインカーを鳴らしながらやってきて、瓦礫を積んで運び出していく音が聞こえた。

静かになった向かいの敷地の前を、ひさしぶりに通り過ぎた。張り巡らされたビニール幕の一部が入口として開けられていた。その内側には……何もなかった。ささくれ立った木材の破片の山に囲まれて、小型のショベルカーが一台停めてあるだけだった。わかってはいたけれど、その光景は、ちょっとショックだった。

今の部屋に住みはじめてから10年近く、ほとんど毎日のように、その前を行き来していた家。そこには、住んでいた人々の日常の記憶が、みっしりと詰まっていたはずだった。家のかたちが消え失せたら、記憶はどこに行くのだろう。誰かが胸の裡に抱き続けていくのか。虚空に宙ぶらりんになったままなのか。

家というものについて、あらためて、いろいろ考えさせられた。

真似と分析

文章にしろ写真にしろ、あるいは他の芸事にしろ、好きな作家の作品を真似することが上達の近道、と指南している例を時折見かける。それはまったく間違っているわけではないけれど、ただ闇雲に好きな作品の真似をするだけでは、レベルアップするのは、真似の精度だけだと思う。

自分はなぜその作品を良いと思うのか。その良さはどこからどのようにして現れているのか。作家はそのためにどんな工夫をしているのか。それらを一つひとつ仔細に分析して、自分なりの理屈に落とし込んでいくと、それを自分の作品に照らし合わせた時、自分の良い面と足りない面がわかってくる。そういった分析のための作業として好きな作品の模倣をしてみるのであれば、悪い方法ではない。

ただ……本当にすごい作品は、そうした小賢しい分析すらも軽々と凌駕してしまう、理屈からはみ出してしまうような「何か」を持っている。それは、けっして技術的なものさしでは測れないものだ。自分だけの「何か」を掴み取るために、書き手や撮り手や描き手は、今日も魂をすり減らしている。