Category: Diary

体重の行方

タイ取材に赴く前、9月の連休に下田の温泉へ旅行に行った直後の頃は、体重が自分史上最大値を記録。うまいものをたらふく食べ過ぎた影響で、腹肉がぱんちくりんになって、ベルト穴を1つ緩めなければズボンも穿けないくらいになっていた。今思い返しても、あれはさすがにやばかった(汗)。

で、約3週間半のタイ取材。暑い中、カメラザックを背負って、毎日2万歩ばかりも歩き回り、歩かない日はレンタサイクルで走り回るという日々を送っていると、当然のことながら、みるみるやせる。出発直後はぱつぱつだった短パンのウエストも、あっという間に余裕ができて、するっと穿けるようになってしまった。毎晩、500mlの缶ビールを(経費でなく自腹で買って)宿で飲んでいたにも関わらず、である。

ただ、暑い中を取材で歩き回って消耗してるだけだと、上半身の筋肉まで一緒にやせてしまう(去年まではまさにその通りになってしまっていた)。なので今年は、宿の部屋での腕立て伏せや腹筋などは、割とまめに続けていた。

帰国して家に戻った後、いったい何キロ減ったのだろう、とちょっとわくわくしながら、風呂場に置いている体重計に乗ってみた。驚いたことに、出発前と、まったく同じ。1キロも減っていなかったのだ。

なんでだろ? 家にあるズボンを穿いてベルトを締めてみても、ベルト穴1つ分は確実に細くなっていたのに。腕立て伏せや腹筋をしてたといっても、それはせいぜい筋肉の現状維持で、脂肪が減った分を埋めるほど筋肉がついたとも感じない。うーむ。なぜだ。

この話、謎はいまだに謎のままで、オチはまったくない。ほんと、なんでだろ。我が腹についてた贅肉よ、いったいどこにいった。

マキネッタで試行錯誤

相方の友人の方から、ペゼッティのマキネッタをいただいた。

マキネッタは、直火式のエスプレッソメーカー。イタリアではどこの家庭にもたいていあるものらしい。僕自身は自分でコーヒーをいれるようになってたぶん20年くらいになるが、もっぱらペーパードリップだったので、マキネッタではいったいどんなコーヒーをいれられるのか、興味津々だった。

マキネッタの構造はとても単純で、下のタンクに水を入れ、粉受けに細挽きのコーヒーを詰め、上半分をセットして直火にかける。すると、下で沸騰した水がコーヒーの粉を通過し、上半分にコーヒーが抽出されて溜まる。ペーパードリップやネルドリップに比べると、テクニックの類は何も必要ない。

とりあえず使ってみるかー、とほとんど下調べもせずに最初に試した時は、水が多すぎたのと、火加減が強すぎたのとで、ものの見事にコーヒーが噴きこぼれてしまった(苦笑)。調べてみると、水はタンクの横のバルブより下、火加減は弱火で、というのがマキネッタのセオリーらしい。それに従っていれてみると、2回目以降はおおむね良い感じのエスプレッソがいれられるようになった。水の量と粉の量、あとはコーヒー自体のチョイス(深煎りで細挽きがよさそう)で、ある程度の味の調整はできそうだ。

もちろん、高圧の蒸気でいれるエスプレッソマシンとは、クレマの有無など埋められない差があるのだが、マキネッタにはマキネッタの、手軽で素朴な味わいがある気がする。これからも仕事の合間に、楽しみながら使っていこうと思う。

スマートな旅

約三週間半のタイ取材を終え、今朝、東京に戻ってきた。

今年のタイの旅は、トラブルらしいトラブルもほとんどなく、スムーズに終えることができた。毎年ほぼ同じ地域を定点観測的に回っているので、土地勘もあるし、注意すべきポイントも頭に入っているから、当然と言えば当然なのかもしれない。あと、言わずもがなだが、テクノロジーの進化に助けられてる面も大きいと思う。

インターネットとスマートフォンによって、旅は格段に便利でスマートになった。その日泊まる宿をネットで事前予約しておくのは当たり前で、飛び込みで訪ねたら逆に訝しがられる。道に迷ったら地図アプリ(オフラインでもGPSで現在位置がわかるアプリもある)を見れば、目的地まで最短距離で移動できる。僕はまだ使ってないけど、タクシーも、今やGrabやUberなどのアプリでピンポイントで呼ぶ時代だ。

その一方で、昔からある安宿街は小綺麗なドミトリー主体のホステルに取って代わられ、トゥクトゥクやソンテオはGrabに客をすっかり奪われて、暇を持て余している。そういう時代の流れにはもはや逆らえないのかもしれないし、ノスタルジーに浸るつもりもないのだが……何だろう。何もかもが効率よくスマートに手配できてしまえることに、ちょっと拍子抜けというか、物足りないものを感じてしまう。

自分が二十代の頃からくりかえしてきた旅をふりかえってみても、記憶に強烈に焼き付いているのは、トラブルにさんざん振り回されて苦労した時の旅だ。自分自身で決断し、周囲の人々にも助けてもらいながら、どうにかして苦境を切り抜ける。そういう経験でしか味わえない旅の本質というのは、確かにあると思う。

自ら好き好んでトラブルに飛び込んでいくのは愚かだけど、あらゆるトラブルをスマートにかわしながら効率よく旅をすることに慣れすぎるのも、どうなのかな、と思った。

七年目のおつとめ

明日から約三週間半のタイ取材が始まる。「地球の歩き方タイ」の改訂のための取材なのだが、何だかんだでこの時期にタイに赴くのも、今年で七年目。我ながらよく続いてるなあ、と思う。

取材の回数を重ねるうちに、だいぶ要領もわかってきて、効率化されてきてはいると思うが、それでも突発的な事情で現地であたふたさせられることは、今年もしょっちゅうあるだろう。まあ、そういう時に柔軟に対応することも含めての取材なので、それなりに覚悟はしている。

今年のタイは、どんな感じだろうか。取材しながらも心穏やかに過ごせたら、それが一番いいけれど。

というわけで、七年目のおつとめのため、しばらく留守にします。帰国は10月24日の予定です。では。

語り部として

毎日、本の原稿を書き続けていると、いろんな発見がある。

フリーランスでライターの仕事を始めて、かれこれ20年にもなるけれど、未だにこれだけ気付かされることがあるのかと、自分でも驚いている。普段の書き仕事では、長くても数千字程度の原稿を書くことがほとんどだが、今取り組んでいるのは、10万字を超える長さの原稿。それも、事実に則したノンフィクションではあるけれど、ある種の「物語」でもある原稿。その違いは大きい。

それは簡単には説明しづらいのだが、「流れ」とか、「間」とか、「緩急」といった、文章術のセオリーには収まりきらないようなことだ。わかりやすく読みやすい文章を書く「物書き」としての技術というより、物語をよどみなく語る「語り部」としての、阿吽の呼吸のようなものだろうか。1行どころか、ほんの1文字で、がらりと変わる。改行や句読点の打ちどころでも変わる。一見無駄に見える何気ないひとことが作り出す流れもあれば、あえてばっさり省くことで生まれるリズムもある。

20年も物書きをやってきたのに、自分は何にもわかっていなかったのだなあ、と、今さらながら、思い知らされている。だから今、書いていて、すごく愉しい。苦しいけれど、最高に、面白い。そうして少しでも、「語り部」に近づいていけたら、と思う。