Category: Diary

トラベラーズ・チェックに思う

ちょっと前のニュースなのだが、アメリカン・エキスプレスのトラベラーズ・チェックが、来年三月末で日本国内での販売を終了することになったそうだ。トラベラーズ・チェックの販売は、Visaなどもずいぶん前に撤退しているし、クレジットカードの普及が進む今、海外旅行での需要も減っていたのだろう。

僕にとって、二十代初め頃からの海外への旅では、トラベラーズ・チェックは欠かせない存在だった。アジア横断の旅の途中、ネパールでホテル泥棒にやられて一文無しになった時も、トラベラーズ・チェックの控えがあったおかげで、近くの銀行ですぐ再発行してもらえたので、何とか旅を続けられたという経験もある。ノスタルジーと言われれば確かにそうかもしれないが、自分の旅の一部であったものがもう手に入らなくなるというのは、正直ちょっと寂しい。

フリーランスというだけでクレジットカードの審査にも通らない(苦笑)身の上としては、これからの旅には、審査不要のVisaデビットカードとかを導入していくしかないのかなと思う。変わっていくのだな、旅のカタチも。まだ手元にある数百ドル分のトラベラーズ・チェックは、まさかの時のお守りとして持っていくことになりそうだ。

旅と居場所

すっきり晴れた、気持ちのいい日和。こまごましたものを買う用事があって、午後、吉祥寺までぶらぶら歩いていく。

歩きながら、頭の中にくりかえし浮かんでくるのは、一昨日のクーデルカの写真展と、図録に書かれていた彼の言葉。無国籍の身の上で流浪の旅を続けながら写真を撮っていた彼は、自分の居場所だと思える場所を見つけてしまわないように、必死に耐えていたのだという。はたしてそれは、いかほどの苦しみだったことか。

僕はかつて、いろんな場所を旅しながらも、心のどこかで、ここは自分の居場所だと思える場所に出会えることを望んでいた。そしてラダックという場所と巡り会い、かけがえのない時間をそこで過ごした。でも、それができたのは、僕にとってのもう一つの居場所、生まれた国である日本という場所があったからなのだと、今はわかる。僕はたまたま、恵まれていたのだ。今の自分があるのは、実力でも何でもなく、たくさんの幸運に支えられていたからにすぎない。

自分を支えてくれていた幸運を、おろそかにしてはならないな、とあらためて思った。

夏から冬へ

急に、すとんと寒くなった。冬とは言わないまでも、すっかり晩秋といった気配。

今年は何だか、自分の中での季節感が、おかしなことになっている。七月から八月にかけてのラダック滞在は、季節以前にヒマラヤの世界での日々だったからまあ置いといて、八月中旬から九月中旬までは日本の残暑にやられ、その後はさらに蒸し暑いタイでの四週間。八月から十月まで、ずっとTシャツ短パンで過ごしていたことになる。暑さで身体中の汗腺がすっかり開ききっていたのに、帰国してたった三週間でこの気候というのは、なかなかきつい(苦笑)。

とりあえず、うっかり風邪とかひいてしまわないようにせねば。おでんでも作ろうかな。

流浪の写真家

昼、電車に乗って都心へ。今日から東京国立近代美術館で始まった、ジョセフ・クーデルカ展を見に行く。

僕はそんなにたくさん写真集を買う方ではないが、二十代の初め頃に買ったクーデルカの仏語版「エグザイルス」は、今も手元にある。あの頃、何度この写真集のページをめくっただろう。モノクロームの写真に横溢する、孤独と虚無。僕にとっての写真にまつわる原体験の一つは、間違いなくクーデルカの写真だった。

1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻を撮影した彼の写真は、マグナムを通じて匿名のまま世界中に配信され、大きな反響を呼んだ。だが、それをきっかけに彼は祖国を逃れ、17年もの間、無国籍のまま、さまざまな土地を彷徨うことになる。どこにも家を持たず、わずかな収入をもとに最低限に生活を切り詰めてまで、彼はなぜ旅を続けたのか。何を見て、何を撮り、何を伝えようとしたのか。彼の作品のオリジナル・プリントを間近で見るのは初めてだったのだけれど、見続けていると、胸の奥の一番深いところを、きゅううっと締めつけられるような気がする。その感情をどう形容していいのか、自分でもよくわからない。

ミュージアムショップで販売されていた瀟洒な装丁の図録を買い、家に帰ってから、ソファでぱらぱらめくる。章と章の間に、クーデルカへのインタビューが挿入されている。その冒頭に、彼のこんな言葉があった。

「ジョセフ、おまえはずいぶん長く旅をしてきたそうだな。どこにも腰を落ち着けることなく、いろんな人に会い、いろんな国であらゆる土地を見てきたんだろう。どこが一番だったか教えてくれ。どこになら腰を落ち着けてもいいと思うんだい?」私は何も答えなかった。そこを発つ時になって彼はまた訊ねた。私は答えたくなかった。でも彼はしつこく訊いてきて、最後にはこう言ったのだ。「ああ分かったぞ。おまえはまだ一番だと思える土地を見つけていないんだな。おまえが旅を続けるのは、まだそんな土地を探しているからなんだろう」「友よ」と私は答えた。「それはちがう。私はそんな場所を見つけないように必死になってがんばっているんだよ」

祖国を離れ、あまりにも長い旅を続けてきた彼の哀しみが、そこににじんでいるような気がした。

「その気にさせる」カメラ

しばらく前から意味深なティーザー広告で話題となっていたニコンの新しいカメラ、Dfが発表された。機械式のダイヤル操作系を持ち、従来機種のデジカメでは対応していなかった古いレンズも使える機能を持つカメラ。そのスタイルと性能にネット上では賛否両論のようだけど、僕は素直に、カッコイイな、欲しいな、と思う。

写真を撮る時、その一枚に撮り手の感情や思いがどのくらい載っているかというのは、とても大事だ。それが写真の価値を左右すると言ってもいいくらい。そして、撮り手の気持ちを写真にきちっと載せるには、しっかりしたカメラを使うことも大事だと僕は思う。たとえばスマホで撮った写真を何枚見せられても、気持ちを込めてカメラで撮った写真に比べると、どうしてもうすっぺらく感じられてしまう。スマホのカメラがどれだけ高性能化していても、だ。

カメラにもいろいろあって、完全なプロ仕様の機能最優先のカメラもあれば、初心者でも扱いやすい操作系のカメラもある。今回のDfは、写真撮影そのものを楽しむことを追求したカメラなのだろう。こういう「その気にさせる」カメラで撮り手の気持ちが盛り上がって、楽しくあるいは真剣に撮影できるなら、それはそれで、プロ仕様のカメラとは違った意味で、いい写真を生む源になるのではないだろうか。

Df、いいな。欲しいな。でも高いな(苦笑)。それよりもまず、これからの仕事で使うためのカメラを買わなくちゃ。