Category: Diary

ゴーヤの塩もみ

暑い夏、ゴーヤが旬だ。近所のスーパーに行けば、三鷹産の立派なゴーヤが1本100円かそこらで手に入る。

ゴーヤを使った料理というと、昔はゴーヤチャンプルー(意外とキレイに作るのが難しい)くらいしか思い浮かばなかったが、先月くらいから、ゴーヤを塩もみにして食べるのに結構ハマっている。

縦半分に切って内側の種の部分をスプーンで取り除き、根気よく薄切りに。塩水に10分ほどさらし、水を切ってから小さじ1杯ほどの塩をもみ込む(ジップロックでやると楽)。しばらくして水が出てきたら捨てて、冷蔵庫で保存。

食べる時は、少量のごま油であえることもあれば、同じく少量のオリーブオイルであえることもある。醤油はたらすとしてもほんの少し。茗荷とかを合わせればさらに豪華だが、個人的にはシンプルにゴーヤをぽりぽり食べつつ、ビールをぐびり、というのが好きかな。

旬の緑黄色野菜、身体に悪いはずがない。飽きるまで食べ続けよう。

食糧の買い出し

ぽんこつな状態で過ごすのにもちょっと飽きてきたので、午後、吉祥寺に出かける。月末からのアラスカ旅行で必要になる食糧の買い出し。

今日買った食糧のほとんどは、山菜おこわや、パスタ、スープなどフリーズドライのもので、あとはインスタントラーメンなど。アウトドアショップで売られている登山用に適したパッケージのものだ。食事としてはいささか味気ないが、場所が場所だけに仕方ない。

日程表からあらかじめ必要な数をそれぞれ算出しておいたのだが、実際に買ってみると結構な量で、レジではお姉さんたちが二人がかりでチェックして袋詰めしてくれた。たぶんその二人には「この人、二、三人のグループでお盆休みにどこかの山へ、二泊三日くらいの縦走に行くのね」とでも思われたんじゃないかと思う。

すみません。一人ぼっちで合計九日間、アラスカくんだりでキャンプを張る物好きです。

ありふれた日々に

日々を生きていると、いろんなできごとに接する。良い知らせもあれば、悪い知らせもある。時には、どうしてそんな理不尽なことに、と、やりきれない気持になる時もある。

自分自身はというと、何の変哲もないありふれた日々を過ごしている。でも、そのありふれた日々こそが、実はかけがえのないものなのだ。自分自身が今こうして生きていられるのは、本当に、たまたまだ。運がいいだけだ。ありふれた日々に手を伸ばしても届かない人が、この世界にはたくさんいる。

今こうして生きていられる自分に、残された時間でできることは何なのか、もう一度、じっくり考えてみる。

自宅で沈没

ここ数日、ほとんど何もしていない。ただただ、ぼんやりとしている。家にいても、パソコンをちょっといじっては、ソファにごろんと寝そべって、つかの間うとうとしたり。本も読まず、テレビも見ず、ひたすらぼんやり。

夏バテというわけではまったくなく、むしろ食欲旺盛で、自分でカレーをたっぷり作って食べたりしている。何というか‥‥「撮り・旅!」発売までの全力疾走と、その直後のイベントや書店回りなどが一段落して、すっかり気が抜けてしまったのだと思う。今週は特に取材や仕事の予定もないし、月末からの旅の準備も、まだそこまで焦らなくていい時期。だったらもう、自分で自分に飽きるまで、ひたすらぼんやりしていよう、と思ってしまう。

自分の家なのに、安宿のロビーで沈没してるだらけた旅行者みたいな気分になってる。

棚を眺めて

昼、銀座へ。三井昌志さんの写真展を観る。その後は銀座と有楽町、六本木の書店を回り、それから中央線で立川に移動して駅周辺の書店を訪ねる。

ここしばらく、たくさんの書店を矢継ぎ早に訪ねていてあらためて思うのは、そのお店の棚を眺めて回れば、そこの書店員さんの技量が何となくわかるということだ。それは巨大な床面積のメガ書店でも、お洒落なインテリアの書店でも、小さな町の本屋さんでも関係なく、棚がどんな風に整えられているかによって、その書店の価値は決まるように思う。

別に、無理に天衣無縫な文脈棚とかでなくても、オーソドックスな整え方で構わないのだ。次から次へと送られてくる新刊を捌きながら、どんな風に並べるとお客さんにとってわかりやすく、気持を惹き付けられるか、丁寧に見定めながら整える。そういう意図が透けて見える棚は、眺めていても気分がいいし、いろんな発見や出会いがある。同じジャンルの本を無造作に突っ込んだだけで、帯やカバーがよれていてもほったらかしだったりすると、何だか残念だな、と思ってしまう。

考えてみれば、すごいスキルを要求される仕事なのだ、書店員さんって。書店の棚から学ぶべきことはたくさんある。