Category: Diary

三年ぶりのライブ

昨日の夕方は、三鷹のデイリーズで開催された、アン・サリーさんのライブを聴きに行った。2020年1月に同じ会場で開催されたアン・サリーさんのライブに参加して以来、三年ぶり。会場はぴっちり満員で、百人以上は入っていたと思う。

ギターの羊毛さん、トランペットの飯田玄彦さん、そしてアンさんの三人による二時間ほどの演奏は、本当に素晴らしくて、時に我を忘れるほど引き込まれた。ゆらめくように繊細なリズムとメロディと、アンさんがあと三人くらいいるのではと錯覚しそうほど多彩なハーモニーを感じさせるボーカル。アンさんのオリジナル楽曲はもちろん、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides, Now」やキャロル・キングの「So Fa Away」を羊毛とおはなバージョンのアレンジで聴けたのもよかったし、個人的に好きな「僕らが旅に出る理由」や「銀河鉄道999」を聴けたのも嬉しかった。あと、MCが自由すぎて、めっちゃ笑わせてもらった(笑)。

あらためて思ったのは、月並みな感想だけれど、生演奏のライブはやっぱり違うなあ、ということ。同じ空間を共有して、音とともに空気の震えや熱気を肌で感じて……。動画配信では伝わらない決定的なもの、ライブだからこその愉しみと喜びがあるのだなあと、思い出させてもらった気がする。

これからはまた、もっと気兼ねなく、あちこちのライブに顔を出せるようになるといいな。

本屋が消えていく

昼、渋谷の映画美学校試写室へ。紹介記事を書く予定の映画の試写を見る。

終わった後、本屋に寄りたくなったのだが、ジュンク堂書店渋谷店は東急百貨店の建て直しの影響で、1月末に閉業してしまっていたことを思い出す。渋谷に来た時にはほぼ当たり前のように立ち寄っていた本屋だったので、何とも言えない喪失感。渋谷ではブックファーストも撤退してしまったし、東京駅前では八重洲ブックセンター本店ももうすぐ閉業だし。東京のあちこちから、本屋が次々と消えていく。

近頃は個人経営の独立系書店が増えたという話も聞くけれど、どこも経営は全然楽ではないそうで、苦労話もあちこちで耳にする。個人的には、最近のエネルギー高騰や物価高からして、あと何年かしたら、アマゾンなどのネット書店で紙の本を買う時の送料も有料化されると予測している。そうなった時、僕たちはどこで本を買えばいいのだろう。今でさえ、すぐ近所に本屋がある街は、日本でも実はそんなに多くはないのに。

結局、僕は渋谷から歩いて代官山に行き、代官山蔦屋書店でほしかった二冊の本のうちの一冊を見つけて買った。もう一冊は、帰りに新宿で途中下車して、紀伊国屋書店新宿本店で手に入れた。仕事用のショルダーバッグは、家から持ってきていた本と合わせて三冊の本で、ぱんぱんになった。

旅行作家と旅写真家について、その後

二年くらい前に、「旅行作家と旅写真家は滅亡するか」というエントリーを書いた。あれから少し時が流れ、コロナ禍は「やや」沈静化し、国と国との間の行き来もかなり復旧してきた。実際、僕自身も、昨年夏にインド、今年の初めにタイに取材をしに行ってきた。

ひさしぶりに海外取材の仕事をしてみて、あらためて思うのは、あのエントリーで書いた予想は的中しつつある、ということ。旅行作家や旅写真家というジャンルの職業の衰退は、想定以上に加速しているかもしれない。

一つには、国際情勢や経済の状況が大きく影響している。ウクライナでの戦争に伴う物流の混乱や、エネルギーや食料の高騰、慢性的な円安傾向などで、海外取材に必要なコストは猛烈に跳ね上がっている。それだけのコストを払って海外取材を敢行し、本なりガイドブックなり雑誌なりを刊行しても、費やしたコストを回収するのはかなり難しい。そもそも、スマートフォンのアプリなどの利便性に押されて、旅関係の雑誌やガイドブックの売上はどんどん落ちていっている。

取材にかかるコストを削減するには、現地在住の協力者に情報提供を依頼したり、ライターやカメラマンへの報酬を減らしたりするしかなくなる。いくら海外での取材が好きでも、生活するのに必要な金額が稼げないなら、職業としては成り立たない。だからやっぱり、旅行作家や旅写真家が活動できる場は、これからどんどん減っていく。

僕自身、これから先、どうしようかなあと思案している。依頼される形でのガイドブックの取材の仕事などは、もう主軸としてはアテにできない(実際、出版社もつぶれたりしたし)。個人的に書きたいと思っているテーマ、作りたいと思っている本の企画は、ライフワークとして追求していきたいが、日々の生活のためのライスワークの選択と配分も、再検討してアップデートしていかなければならない。でないと、早晩、立ち往生してしまうことになる。

厄介な時代になったものだが、過去の遺物となって風化してしまわないように、サバイブできそうな道を模索していこうと思う。

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佐々木美佳『うたいおどる言葉、黄金のベンガルで』読了。「うたいおどる」という形容にふさわしい、伸びやかな筆致で綴られた、ベンガルの大地と人々、言葉、そしてタゴールへの愛着。この本の元となった連載の執筆を続ける間に、コルカタの映画学校への留学を決めてしまうという思い切りのよさには、びっくりした。これからもその軽やかさで、ベンガルにまつわる映画や本の制作に取り組まれていくのだと思う。

仕事とマスク

一昨日と昨日は、打ち合わせなどの用事で、日中出歩いていた。ほぼずっとマスクをつけっぱなしで、打ち合わせの時もマスクをつけたまましゃべり続けたので、軽い酸欠になって、夜には頭が痛くなってしまった。標高3500メートルのラダックでも酸欠にならないのに(苦笑)。

長年関わっている大学案件の取材など、国内での取材を伴うライターの仕事は、最近はほとんどリモートでの取材に移行している。だから、マスクをつけて対面で行う取材の機会は減ったのだが、資料を色々引き合わせたりする込み入った打ち合わせとかは、やはり対面で話した方が何かと効率がいいので、その席上ではマスクをしている。自衛というより、仕事でお世話になっている方々を慮って。

日本政府が、「3月13日から、マスク着用は個人の判断」というお触れみたいなものを出した。でもそれは、医学的なデータと知見に基づく判断ではなく、政治家の都合(5月のG7とか)に合わせた雰囲気作りみたいなもの。はいそうですかと従う気には、まったくなれない。少なくとも、仕事の現場で人と会う時には、もうしばらくはマスクの着用を続けようと思う。ウイルスの有無を見切ることなど、人間ごときにできるわけがないのだし。

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栗田哲男『踊る虎 中国辺境の文化を巡る』読了。タイ取材に出発する直前に見本誌を送っていただいていて、帰国後に楽しく読ませていただいた。貴重な記録だと思う。中国語を巧みに操ることのできる取材者としての、栗田さんのひたむきさと謙虚さ、現地の方々へのリスペクトがあればこそ作り得た一冊だ。その語学力とコミュ力を活かして、単一のテーマか地域をじっくり深掘りした作品を次は読んでみたくなった。

歩み去る人々

アーシュラ・K・ル=グウィンの作品を、一冊々々、少しずつ、読み進めている。この間、『風の十二方位』という短篇集を読み終えた。収録されていた17篇の中で、とりわけ強く心に残ったのは、「オメラスから歩み去る人々」という物語だった。

文庫本でほんの十数ページほどのこの掌篇は、オメラスという架空の街にまつわる物語だ。オメラスでは、諍いも何もなく、誰もが幸福に満ち足りた日々を過ごしている。オメラスの人々の幸福は、ある建物の地下の牢獄に幽閉されている、一人の子供の苦悶と引き換えに与えられている。誰かがその子供を救い出そうとしたら、オメラスの幸福は失われてしまう契約になっている。オメラスに住む人々はみな、そのことを知っている。

ほとんどの人が、幽閉されている子供のことを、見て見ぬふりをしたまま、日々を過ごしている。しかし時に、その子供の存在を知った少年や少女、あるいはもっと年老いた人々が、何も言わずにオメラスを離れ、ぽつりぽつりと、何処かへと歩き去る。何処へ向かうのかはわからない。でも彼らは、自分の選んだ行き先がわかっている。

ロシアとウクライナの間で戦争が始まってから、一年が経った。トルコとシリアの地震で、五万人以上もの命が失われた。ミャンマーでは、国軍が無辜の人々を弾圧している。日本は、どうだろうか。今の社会の中にはびこる理不尽なものごとの数々に対して、僕たちはぬるま湯に浸ったまま、見て見ぬふりをしてはいないだろうか。

僕も、見て見ぬふりをしない勇気を持ちたい、と思う。