Category: Diary

ムズカシイ本を読むこと

例によって、最近また、まったく読書ができていない。帰国してから約1カ月、想定外の忙しさでばたばたしてるうちに、このていたらく。読みたい本は本棚で何冊も待機してるし、帰国してからも何冊か買い足した。ずいぶん前から読みかけの本もあるのだが、ほかと並行して読んでるうちに、それだけ取り残されてしまっている。

世の中に存在する本は、さらっと簡単に読めてしまうものばかりでなく、読みごたえがあるというか、読みこなすのに骨が折れる、難解な内容の本もたくさんある。そういう本は往々にして手が伸びなくなりがちなのだが、がんばって読み終えると、なんだかちょっと清々しくもなる。そこから身につくことも、たぶん少なからずある。

以前取材した、とある大学の先生が、若いうちにムズカシイ本をがんばってたくさん読んでおくと、あとで読むよりずっと身につく、という意味のことを話していた。それが本当かどうかはわからない。僕自身、確か中学生になるかならないかの頃に、父からヘルマン・ヘッセの全集をあてがわれて、頭を抱えながら読んだ記憶があるが、はたして、それで賢くなれたのかどうか。

ともあれ、来週からのタイ取材、忙しいのは目に見えてるが、とりあえず、読みかけの本は持って行く。もうまったく若くはないけども。

希望なき国

昨日の夜から、断続的に雨が降り続いている。ずいぶんひんやりとした雨だ。

終日、部屋で仕事。手元にたまっていた原稿は、どうにかすべて関係各所に送り終えた。来週明けからのタイ取材の荷造りも、ぼちぼち開始。タイに行く時は荷物が少ないので、撮影機材以外の荷物はあっという間にまとめ終えた。まあ、あっちではずっと、Tシャツ短パンサンダルだし。

世の中では今日、衆議院が解散。僕はずっとタイにいるので、期日前投票すらできないのだが、正直、ちょっとほっとしてもいる。だって、右翼か極右かどっちか選べと言われても、さすがに困る(苦笑)。真っ当な政治家は、日本にあと何人残っているのだろうか。

希望なき国、日本。まったく、うんざりだ。

鈍感になっていく

午前中から、新宿で取材。家を出る前にネットを見ていたら、中央線が人身事故で大幅に遅延というニュース。とりあえず予定より早めに三鷹駅まで行き、総武線の始発で新宿へ。それでも少し遅れはしたが、待ち合わせにはどうにか間に合った。

昨日も昼に曙橋の方に行く用事があったのだが、新宿駅で都営新宿線に乗り換えようとしたら、人身事故で完全に止まっていて、総武線で市ヶ谷の方から迂回しなければならなかった。最近、こういうのが多い。というか、常に多い。人身事故が、日常茶飯事のようになってしまっている、東京では。

列車の遅れで大事な予定が大幅に狂うと、正直言って「迷惑だなあ」と思わないでもない。誰もがあまり気にしないようにして、なるべくすぐに忘れてしまおうとしているようにも見える。でも、そうやってどんどん鈍感になっていくのは、ある意味、とても怖いことのようにも思う。

人の命が消えていったことに対して、胸の奥に感じる痛みを、ほんのいくばくかでも、忘れないようにしたい。

冷やし中華はもう終わっていた

夕方、近所の中華料理屋へ。ここで晩飯を食べるのはずいぶんひさしぶりだ。

カウンターの前に貼られた写真付きメニューの中に、冷やし中華が載っていた。まだやってるのかな、今日は蒸し暑かったしな……と思って、「冷やし中華、ありますか?」と聞くと、

「あー。冷やし中華は、終わっちゃいましたねー」

と、元ヤンっぽい新顔の女の子の店員さんに、ばっさり切って捨てられてしまった。そうか。冷やし中華の季節は、もう終わってしまってたのか。

代わりに豚肉ニラもやし炒めかけごはんを食べ、家までの帰り道。公園の大木から、一匹だけ、セミの鳴き声が聞こえていた。

写真と現像と作為

終日、部屋で仕事。夏の間にインドで撮ってきた写真のセレクトと現像作業が、ようやく一段落。今年は新しい本を作るのに必要な撮影がたくさんあったので、いつもの年よりずいぶん時間がかかったが、とりあえずほっとした。

写真の現像作業、僕はニコンのデジタル一眼レフで撮影したRAWファイルを、アドビのLightroomというソフトで調整して、JPEGファイルに書き出している。Lightroomというのは便利なソフトで、これと同じアドビのPhotoshopとがあれば、それこそありとあらゆる加工処理を写真に施すことができる。

ただ、僕がデータの現像作業の時に意識しているのは、なるべく余計な加工をせず、最低限の調整ですませるようにすること。カメラとレンズのキャリブレーション、ホワイトバランス、露出。必ず確認するのはそれくらい。ハイライトやシャドウ、明瞭度、彩度、その他もろもろのパラメータは、必要に応じて、ほんのちょっとずついじる。撮影した時のまま何も加工していない「撮って出し」と思われるくらい自然な仕上がりが、ある意味一番理想的かもしれない、と思っている。だから、海外の写真愛好家の作品でよく見かける、HDRバリバリのCGチックな写真は、とても苦手だ(苦笑)。

撮影して現像する側の作為のようなものは、写真を見る側の人になるべく伝わらないようにしたい。見たまま撮ったまま、あるがままのイメージを、そのまま伝えたい。現像作業による調整作業は、撮影者が実際に目にしたイメージにできるだけ忠実な写真になるように微調整するためであって、撮影者が心の中で膨らませたドラマチックで絵画的なイメージに改変するためではない。少なくとも、僕の場合はそうだ。

それはある意味、写真を撮影する行為そのものにも通じることかもしれない。撮影者の作為が透けて見え過ぎる写真は、時としてあざといと受け取られてしまう。作為の枠の外にある、偶然のような何物かの流れを捉え、あるがままに受け止めること。そういう撮影ができるようになれたら、と思う。