「長い間、旅に出ていると、日本や日本食が恋しくなったりしませんか?」という質問をよくされる。僕自身は、生まれてこのかたホームシックというものを感じた経験は一度もないし、旅先で日本食が恋しくなった経験も全然ない。
ただ、「帰国してからどういう時に、日本に戻ってきたなあと感じますか?」と聞かれると、リトスタに行って、ビールを飲みつつ、好きなものをあれこれつまんでいる時かな、と思う。旅に出る前の日の夜と、帰ってきた日の夜、定休日や貸切でなければリトスタに行って晩ごはんを食べるのが、僕にとっては一つの儀式のようになっている。
リトスタには旅の前後だけでなく普段からよく行っているのだが、たぶんそれは「ほっとしたいから」なのかな、と最近思うようになった。自分の現在位置を確認する、心の基準点の一つになっているというか。東日本大震災の頃に東京で余震が続いていた時期もそうだったし、先日のパリでの無差別テロなどで気持がどんよりしているような時も、リトスタに行ってごはんを食べると、どこかしらほっとして、我に返る部分がある。
東京での自分の心の基準点がリトスタなら、ラダックでの心の基準点は、ノルブリンカ・ゲストハウスだ。今年の夏も、宿に着いて荷物を置き、台所でチャイをすすっていると、不思議なくらいすべての時間と感覚が巻き戻って、自分がしっくりとあの土地になじむのを感じた。たぶんそれは、楽しい時間を共有してきた記憶だけでなく、2010年の土石流災害の時のようなつらい時間も分かち合ってきた人々がいてくれる場所だからだろう。
心の基準点と呼べるものをいくつも持っている僕は、きっと、幸せなのだと思う。そうした基準点には、人それぞれ、いろんなものがあるはずだ。家族が待つ家での団らん、気のおけない友達との長電話、恋人と歩く散歩道。でもこの世界には、そういう何気ない基準点すら持てないでいる、つらい境遇を強いられている人々がたくさんいる。そういう人たちが世界各地にいることを忘れないこと。どうしたらその人たちの境遇を変えられるのかを考え続けること。心の基準点は、自分自身のためだけでなく、誰かのために何かをする時にも大切になるんじゃないかな、と僕は思う。