美しい自然に恵まれた中央アジアの小国、キルギスのイシク・クル湖畔を舞台にした映画で、主人公は小さな村で「明り屋さん」と呼ばれる電気工、ときたら、きっと、ほのぼのと心穏やかになれる映画に違いない。先週観た「息もできない」が重いテーマの作品だったので、バランスを取りたいなと思ってこの「明りを灯す人」を選んだのだが、どっこい、ある意味、先週以上に重く、悲しい映画だった。
主人公の「明り屋さん」は、料金を払えない貧しい家の電気メーターを細工してタダで使えるようにするなど、困った人を見過ごせない、純朴で優しい男。彼の夢は、村の対岸の峡谷に発電用の風車をたくさん建てて、村に電気をもたらすこと。妻も幼い娘たちも、村人たちも、そんな彼を愛していた。だが、キルギスという国の政治は混迷の度を増し、ロシアや中国といった大国から押し寄せる激しい変化の波は、彼らの小さな村にも押し寄せる。貧しいながらもキルギス人としての誇りを持ち続ける「明り屋さん」の行末は——。
実際、終盤にさしかかる直前までは、本当にのどかでほのぼのとしたテンポで(途中に凶兆は差し込まれるのだが)話が進むので、物語の結末との落差には、多くの人が唖然とするに違いない。でも、主人公の「明り屋さん」が、キルギスという国と人々そのものを体現している存在と考えれば、この結末になるのも納得できる。それだけ、現在のキルギスを取り巻く状況は苛酷なのだ。国内政治は混乱を極め、2010年の民族紛争では多くの血が流れ、ロシアや中国の資本に思うように蹂躙され‥‥。それでも、風車が鎖を引きちぎって再び回り、ささやかな明りが灯される日が、きっと来る。自身で主演を務めたアクタン・アリム・クバト監督は、そんなメッセージを込めたかったのに違いない。
僕が好きなシーンは、村の男の子が高い木によじ登って降りられなくなったのを、「明り屋さん」がロープを肩に助けに行く場面だ。自らの危険も省みずに、男の子が枝にしがみついている場所にまで登った「明り屋さん」は尋ねる。「どうして、こんなところにまで登ったんだ?」
男の子は答える。「見たかったんだ。山の向こうを」