「好きな映画監督を五人挙げなさい」と言われたら、僕は悩みに悩んで、次の名前を挙げると思う。ジョン・カサヴェテス、クシシュトフ・キェシロフスキ、レオス・カラックス、ジム・ジャームッシュ、そして、アッバス・キアロスタミ。彼らの作品を初めて観たのは二十代の頃だったが、「これが映画というものなのか!」と、それまでの自分の価値観を根底から揺さぶられるような衝撃を受けたのを憶えている。彼らのどの作品も、僕にとってかけがえのない、宝石のような存在だ。
今年の東京フィルメックスで、キアロスタミ監督の最新作「トスカーナの贋作」が特別招待作品として上映されると聞いて、ひさびさに「観たい!」と脊髄反射的に思った。キアロスタミ監督の作品を映画館のスクリーンで観るのは、七年ほど前に公開された「10話」以来だ。これまで、フィクションとドキュメンタリーの垣根を軽々と飛び越え、観客をアッと言わせる作品を作り続けてきた彼は、今度はどんな魔術を見せてくれるのだろう。子供のようにわくわくしながら、暗いスクリーンにフィルムが投影されるのを待つ。
魔術は健在だった。やられた。想像を、はるかに超えていた。
南トスカーナにある小さな街に講演をしに訪れたイギリス人作家が、アンティークギャラリーを営むフランス人女性と出会い、二人で街を巡りながら一日を過ごす‥‥のだが、実は、ここまで書いた設定も本当に正しいのかどうかわからない(苦笑)。設定もストーリーも、あってないようなものというか、少なくともキアロスタミ監督にとっては、あまり重要ではないようだ。実際、上映終了後のQ&Aセッションでも「どちらが正しいのかを決めることに、本質的な意味があるのでしょうか?」という意味の答えをしていた。
お互いに好意を持っているように見える主人公の二人が交わすやりとりは、どこかちぐはぐで、間が悪く、うまくいきそうでいかない。どうしてこうなっちゃうんだろうという展開が、無限ループのようにくりかえされる。男と女の関係は、いつもとても複雑で、どこまでいっても果てがない。キアロスタミ監督が描きたかったのは、まさにそういうことなのだろうと思う。
この作品によってカンヌ映画祭で女優賞を受賞したジュリエット・ビノシュと、相手役のウィリアム・シメルの演技が素晴らしいのはもちろんだが、個人的に一番気に入ったのは、カフェの店主役のイタリア人のおばちゃん。キアロスタミ監督がロケ地の街でスカウトした方だと思うが、彼女のほんの数分の演技で、作品の流れや雰囲気ががらっと変わってしまったほどの存在感だった。英語とフランス語とイタリア語が飛び交う混沌とした雰囲気を作品の個性に変えてしまう演出は見事だったし、キアロスタミ監督の作品独特のカメラワークも、そこかしこに見られる細かいイタズラも、さすがだと唸らされた。全編に、映画への愛があふれている。
キアロスタミ監督はQ&Aセッションで、「次の作品は日本で撮りたい。クランクインまで何が起こるかわからないのが映画というものだが、来年の三月くらいには撮影に入りたい」と語っていた。彼の次回作が日本で撮影されるというのは、心が躍る知らせだ。だが同時に、キアロスタミ監督のような人が自国内での撮影も作品の上映もままならないという現在のイランの国内事情は、とても残念なことだと思う。