Tag: Photo

明日からインドへ

昼、渋谷へ。モンベル渋谷店で開催された三井昌志さんの帰国報告会を拝見する。注目していたミャンマーのロヒンギャ問題についてのレポートは、ミャンマー側の村だけでなく、バングラデシュ側から国境付近にあるロヒンギャの難民キャンプを訪れた際の話が興味深かった。こういう問題は、現地取材によって事実に基づく情報を積み上げていかないと、なかなか全容が見えてこない。三井さんは写真のスキルだけでなく、行動力や実行力の面でももっと評価されるべき人だと思う。

終了後、知人たちとマメヒコでコーヒーを飲んで別れ、夕方からはリトスタで恒例の最後の晩餐。今回もいろいろおいしくいただいた。明日の朝は4時起き。目覚ましに反応してちゃんと起きて、最後の身支度と家を留守にする作業をしてしまえば、あとは出発するだけだ。はー。がんばろ(苦笑)。

帰国は8月26日(土)の予定。それまでこのブログの更新もしばらくお休みします。では。

「光」

河瀬直美監督の最新作「」。視力を失いつつあるフォトグラファー、中森と、視覚障害者のために映画の音声ガイドを作っているライター、美佐子の物語。これは観ておかなければ、と思っていた。

観ていてまず感じたのは、光と影、そして一つひとつの物音が、とても丁寧に捉えられ、繊細に表現されているということ。観る者の感覚は映画の中に引き込まれ、自分自身を取り巻く世界のディテールを感じ取る。

次に感じたのは、僕たちはみな、別に何も違わない、同じ人間なのだ、ということだった。この世界には、目や耳、手足にハンディキャップを抱えている人、あるいは認知症などで思考や記憶にハンディキャップのある人もいるけれど、それぞれが、それぞれの世界を持っている。一人ひとり、みな違っていて、だからこそ、何も違わないのだと。

そして、観終わった後に思ったのは……大切なものを失っても生きていく、ということについて。

もし自分が、写真を撮ることができなくなって、あるいは文章を書くことができなくなって、それでも生き続けなければならないとしたら。そう想像した時、本当に背筋が凍るような感覚で、怖ろしくなった。普通に死を迎えるより、その方がずっとつらい。なまじ、こういう仕事をしているからではあるけれど。

人間は、大切なものを、ずっと抱えながら、そして時々失いながら、生きている。僕たちが生きていく先に横たわっているものは、希望なのか、それとも、あきらめなのか。それを簡単な言葉に置き換えたくはない。いつか終わりが来た時に、その人だけが感じ取れるものなのかもしれない。

100パーセントと120パーセントの差

僕は何かの仕事に取り組む時、力を100パーセント出す場合と、120パーセントまで振り絞る場合がある。以前、人にこう話すと、「普段から常に120パーセントの力を出す心構えでは臨めないの?」と返されたことがあった。うーん、違うんだな。そうじゃない。少なくとも僕にとって、100パーセントと120パーセントとの間にある差は、心構えで埋められる類のものではない。

普段の仕事……フリーライターとしての取材と執筆、雑誌記事やガイドブック制作のための撮影、それらをまとめるための編集作業などでは、絶対に気を抜かず、もちろん手も抜かず、万全の仕上がりを目指して、100パーセントの力を出す。この仕事をしている身としては、当然の姿勢だ。そうでなければ、あっという間に信頼を失い、食いっぱぐれてしまう。

では、そこからさらに、120パーセントまで力を振り絞ろうとするのは、どんな時か?

これまでの自分をふりかえっても、そこまでとことん追い詰められた経験は数えるほどだが、そういう時は……その仕事自体が、自分自身のとても個人的な部分にある動機と、分かち難く結びついていた。その仕事に取り組む時は、普段の力を全部出すのはもちろん、自分自身の個人的な部分、弱さや情けなさも含めて、否応なく向き合い、自問自答をくり返さなければならなかった。ひとことで言うと、魂を自分で削っていくような、そんな感覚。

100パーセントの時も、120パーセントの時も、目の前の作業に対して出している力自体は、ほぼ同じだと思う。20パーセント分の差は、自分自身と向き合って戦うかどうかの差。その戦いの結果は、目に見える形で現れるとは限らない。でも、どこかに何かしら、寄り添う影のように残る。

そういう、自分自身と戦わなければ後悔するような仕事とは、生きている間に、たまにめぐり会う。

「作品」とは呼べなくて

僕の仕事は、文章を書いたり、写真を撮ったり、それらを編集したりして、本や記事を作ることなのだが、そうして書いたり撮ったりして作り上げたものを、自分で「作品」とは呼んでいない。それぞれ「文章」「写真」「本」「記事」と呼んでいる。

「作品」という言葉には、「自分自身の内から湧き出てくる何かから作り上げたもの」というイメージが、少なくとも僕の中にはある。そのイメージと照らし合わせて考えてみると、僕の文章や写真は、僕自身の内にあったものだけから作り出してはいない。いろんな場所に行って、見て聞いて感じたものを、「書かせてもらっている」「撮らせてもらっている」「それで本や記事を作らせてもらっている」という感覚に近い。そうやって作らせてもらったものを自分で「作品」と呼ぶのは、とてもおこがましい気がしてしまうのだ。この先、死ぬまでに一冊くらい小説を書いたりすることもあるかもしれないが、僕の場合、それすらも「作品」と呼ぶには気恥ずかしくなってしまうと思う。

たぶん僕は、「作り手」ではなく、根っからの「伝え手」気質なのだと思う。

初夏の土曜日

昨日は梅雨っぽい天気だったが、今日は昼から晴れて、風も吹いて爽やかな日になった。

午後、広尾で昨日から始まった吉田亮人さんの写真展へ。今日は会場で吉田さんと石井ゆかりさんとの対談があるとのことで、すべり込みで拝見させてもらった。先日のKYOTOGRAPHIEで吉田さんが発表した「Falling Leaves」の制作過程の話も。写真家をやめようと思ったほど悩み抜いた末、写真家として、人としての原点と、これからの道を見出した吉田さん。大きな一歩を踏み出されたのだな、と思う。

その後、神保町に移動して、スヰートポーヅで餃子中皿定食をたいらげ、少し書店街をぶらつき、夕方から岩波ホールでチベット映画「草原の河」を観る。山あり谷ありの大感動作とかではないけれど、静かで、しみじみ、じんわりとくる映画だった。標高の高い場所が、少し恋しくなった。

……まあ、あと1カ月後には、行くんだけども。そう考えると、それはそれで、何だか茫然としてしまう。