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天からの災厄

今年の日本は、大規模な自然災害が、とにかく多い。西日本の豪雨による洪水、関空を閉鎖にまで追い込んだ台風21号の暴風雨、そして今朝の北海道の震災。ヘリからの空撮で、山という山がまるで冗談のように根こそぎ崩れて土肌を晒してる写真を見て、唖然とした。

こういう自然災害のニュースを見ていると、不安になる一方で、「いや、自分たちは大丈夫だ」と根拠もなく思い込みたくなったりもする。当たり前だが、そんな保証はまったくどこにもない。いつになるか、どの程度になるかはわからないけれど、自分たちの番は必ず来る、と思っておいた方がいい。実際、その通りだろうし。

天からの災厄と、人の営みの儚さ。ほんと、次は自分たちの番、かもしれない。

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J.D.サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」読了。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンが登場する作品を中心にしたいくつかの短編と、グラース・サーガの最後の作品、7歳のシーモアが書いた長い手紙という形の中編「ハプワース16、1924年」が収録されている。サリンジャーの小説を読んだのはものすごくひさしぶり(20年ぶり?)だったのだが、その文体のみずみずしさと、繊細に組み上げられた構成の巧みさに、あらためて舌を巻いた。第二次世界大戦に従軍した時の経験が彼の心の奥に深い傷を負わせていたことも、この本で実感した。

気になったのは、訳者が「ハプワース〜」で、レスを「父さん」、ベシーを「母さん」としたという点。そこは、訳者として違和感があったとしても、原文のまま「レス」「ベシー」としてほしかった。シーモアはそのくらい、ぶっちぎりにこましゃくれた子供だったわけだし。

ともあれ、再びサリンジャーに興味が湧いてきたので、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」や「フラニーとズーイ」、柴田元幸訳の「ナイン・ストーリーズ」など、最近の新訳で読み直してみようかな、と思う。

当たり前の日々

今朝、大阪方面で、かなり大きな地震。死傷者が出て、ライフラインや交通機関にも障害が生じているという。つい二週間ほど前に訪れていた土地だから、まったく他人事とは思えない。関西には友人も大勢いるし。

こういう自然災害の報せを聞くと、ばしゃっと冷や水を浴びせられたような気持になる。普段、当たり前のように感じている日々は、実は当たり前でも何でもなくて、多くの人々の努力とそれなりの幸運によって支えられているということ。運命がほんのちょっと気まぐれを起こせば、たやすく崩れてしまうバランスの上に成り立っているということ。

忘れてはいけないな、と思う。当たり前の日々は、けっして当たり前ではないと。

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ル・グウィン「闇の左手」読了。ものすごい本。打ちのめされた、と思えるほどの読後感。僕の生まれた年に書かれた作品だが、今読んでもまったく古さを感じないどころか、今の時代にこそ読まれるべき着眼点を備えていることに驚く。ル・グウィンの作品はまだ「西のはての年代記」シリーズしか読んでいないのだが、これからいろいろ手に取ってみようと思う。

神戸元町中華街

この間の週末は、用事があって、一泊二日で神戸に行ってきた。

神戸では、元町というところで宿を取った。元町はほんのりと潮の匂いのする町で、広々とした商店街を、人々がのんびりと行き来していた。「神戸ビーフ」を謳う看板があちこちにあり、それと同じくらいの数のスパイダーマンの等身大人形が、なぜかあちこちに貼り付いている。元町にはこぢんまりとした中華街もあって、大勢の若者たちがわいわい騒ぎながら、小さな椀で売られている400円くらいの麺を道端ですすっていた。

宿はその中華街のすぐ近くにあった。シンプルで小綺麗な宿で、Wi-Fiはもちろん、フリーのドリンクバーもある。海外からの宿泊客も多いから、このくらいの設備はあって当然なのだろう。夕方に少し散歩した後、お茶でも飲もうと思ってそのドリンクバーに行くと、むっちゃ見覚えのあるパッケージの烏龍茶のティーバッグが置いてあった。海外の中華圏を旅すると、いろんなところで遭遇する、どこにでもあるありふれた烏龍茶。ありふれてるのに、これがまた、うまいのだ。

ティーバッグをお湯に浸して、ひと口すすったとたん、どこかの国の見知らぬ宿にいるような気分になった。

「意見」を読む前に「事実」を知る

今日の取材中、本筋とは関係のないところで、こんな話が出た。

最近、世間に出回っているニュース記事の類には、ニュースというより、それを書いた人の「意見」になってしまっているものが少なからずある。個人のブログであれば根拠のない誹謗中傷でもないかぎり好きに書いていいが、大小問わずメディアの名を背負う者の書く記事であるならば、まずは確固たる裏付けのある「事実」を提示すべきだ。その上で意見表明をしたいのであれば、社説など記名記事の場で論じればいい。

日頃からニュースを読む僕たちの側も、フェイクニュースやデマや扇動の類に惑わされないように、どの記事が真実を伝えているのかを見極める力が必要になる。そのためには、他人の「意見」を読んで安易に鵜呑みにする前に、何が「事実」なのか、客観的な視点で情報を集めて、自分自身で考える習慣を身につけなければならない。

自分の願望と同じ「意見」ばかりを集めても、「事実」の積み重ねである現実を見通すことはできない。

多様性と平行線

一昨日、取材の中で、こんな話題になった。

最近、ニュースなどでよく聞く「多様性」(diversity)という言葉。国籍や人種、性別、宗教、その他の内面的な価値観や意見の異なる人々が、この世界には混在する形で共存していることを指している。ただ最近は、「多様性を認めるべき」という言い方が、ともすると「異なる価値観や意見を持っている人ともわかりあうべき」というニュアンスで使われていることも多いという。

この「わかりあうべき」という考え方は、正直、かなりズレているように思う。というのも、世の中には、どれだけ互いに努力しても、どうしてもわかりあえずに平行線を辿るしかない関係にある人々が、必ず一定数以上はいるからだ。そういう人々とは、お互いにできるだけ干渉せずに平行線のままでいた方が、たいていうまく共存できるはずだ、と。

ある一つの考え方が、唯一無二の正しい答えであるとは限らない。正確な事実に基づいた論拠があれば、別の考え方もまた正解なのだ。その場合は、それぞれの論拠を確認し、認めないまでも、尊重しなければならない。

世の中には、本当にたくさんの、平行線のままでしか共存し得ない人々がいる。その時に忘れてはならないのは、地球上のすべての人間には、守られるべき尊厳と人権があるというルールだ。自分たちの価値観を強要しようとして、相手の尊厳を故意に傷つけたり、人権や身の安全をないがしろにしたりするのは、論外だ。巷に蔓延しているヘイトツイートやヘイトスピーチ、悪意のあるデマの類は、その域を完全に超えている。国会議員にすらそれに加担している輩がいるという事実が、この国の病の深刻さを物語っている。

平行線は、平行線のままで。無理にわかりあわなくてもいいから、お互いの尊厳と人権を、尊重して。