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とりあえずの仕事納め

年の瀬もだいぶ押し迫ってきたが、おかげさまでどうにか、仕事納めと呼べそうな状況にまで漕ぎ着けた。現時点で納品できるものは全部送ったし、今から急に何か依頼が来ることもないだろう。

今年の春先に着手して、十月末に最後まで書き上げた新刊の草稿は、版元のご配慮のおかげもあって、二カ月近くの時間をかけて推敲とリライトを施したので、かなり完成度を高めることができた。それらの原稿素材一式も無事に納品することができたので、ほっとしている。年明けからはいよいよ、編集作業が本格的に始まることになる。

その一方で、来年出す予定のもう一冊の新刊の作業は、十二月が私事でかなりバタバタしていた影響で、滞ったままだ。書き下ろし分が結構あるのだが、実はまだ全然……(汗)。これから、ほかの仕事や確定申告準備の合間を縫って、なるはやで書き進めなければならない。来年、頑張らねば……。

そんなわけで、仕事納めといっても、まあとりあえず、といった程度。たぶん年末年始も、何かしら、原稿を書いてるんだろうな。

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朱和之『南光』読了。二十世紀初頭に台湾の客家の名家に生まれ、留学先の日本でライカを手にしたのを機に写真家となった鄧騰煇(鄧南光)の生涯と残された写真をモチーフに、作家の朱和之が書き上げた小説。鄧南光と彼の周囲の人々の実際の生涯をなぞりながら、細かな部分を想像力で埋めていった感じの作品で、鄧南光が生きたそれぞれの時代の空気が、モノクロームの写真に彩色を施したように、文面に鮮やかに甦っていた。

八木清『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事』読了。探検家のクヌート・ラスムッセンが、二十世紀初頭に極地を探検しながら採録した現地の先住民に伝わる伝承の数々の中から、八木さんが選び抜いて和訳したものを、八木さんが撮影した写真とともに収録した一冊。読めば読むほど底知れない深淵を感じさせる、先住民の言葉たち。八木さんによる写真も、ひっそりと何気ないようでありながら、揺るぎない奥深さがある。美しい本だった。

抜かりなく、前へ

先週の月曜と、今週の月曜は、来年出す本についての打ち合わせがあった。それぞれ別の出版社から出す、別の本の。

そう、来年は、前半に一冊、後半にもう一冊、合計二冊の新刊を出す。前半の本は、今まさに原稿の推敲作業中で、年明けから春頃までかけて編集作業をして、連休前くらいには世に出す。後半に出す本は、すでにある程度は書けているのだが、これから一冊目の本の作業の合間に、足りない分を書き足して、六月頃から編集作業に入り、秋頃に出す。つまり2025年は、ほとんど息つく暇もなく、ひたすら本を作り続ける年になる。

きっと、いろんな苦労やつまずきがあって、大変な思いもするんだろうけど、それでも、自分が一番好きな仕事である本づくりに、首元までどっぷり浸れるのは、嬉しいし、楽しみでもある。順調に進められているからといって油断していると、思わぬポカミスをやらかして一生後悔するようなことになりかねないので、抜かりなく、一歩ずつ、前へ進んでいこうと思う。

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劉慈欣『三体』『三体II 黒暗森林(上)(下)』『三体III 死神永生(上)(下)』、文庫本ですべて読了。いやあ、途方もない……本当に途方もないスケールまで拡がっていく物語だった。最新の物理学や宇宙理論に関する豊富な知識と、奇想天外にも思える奔放なアイデアによって、壮大でありながら恐ろしく緻密な物語が組み上げられている。最初の巻に出てくる三体ゲームのくだりを読んでいても感じたが、この三部作自体、僕も昔やったことのあるシムシティやシムアースなどのシミュレーションゲームのように、人間世界と三体世界の歴史を鳥の目線でシミュレートした物語に思えた。都市や地球どころか、太陽系、銀河系、宇宙、次元、時間までも、最終的に織り込まれていくシミュレーション。誰かの思いも、命も、瞬く間に弾けて消え失せてしまう、儚さと虚しさ。それもまた、この世に生きとし生けるものの定めか。

まっしろな砂漠の果てに

今年の春頃から書き続けていた、新しい本の草稿を、昨日、最後まで書き終えることができた。

一冊の本を書くことは、誰も歩いたことのない、まっしろな砂漠の只中を、一人で歩き続けていくのに似ている気がする。そこには道も、足跡もなく、どこをどう進んでいくのかは、すべて自分で決めなければならない。書きはじめる前に、計画(プロット)はあらかじめ入念に考えてはいるけれど、いざ始めてみると、計画通りに進まないこともよくある。あまりにも長い時間、その本のことをずっと考え続けているので、しまいには、それが本当に面白いのかどうか、自分ではわからなくなってしまう。

前に書いてきた本では、一番最後の数行にどんな文章を書くか、あらかじめ決めていたことがほとんどだった。でも今回の本では、最後の章までの大まかな構成を考えておいただけで、どんな文章で締めるのかは、あえて決めないまま、書き続けていた。まっしろな砂漠を歩きながら、どこで歩き終えるのかを、自分の感覚で見定めたかったのだと思う。

その最後の文章は、思いがけないほど、すんなりと現れた。自分の中から捻り出して書いたというより、しぜんと目の前に舞い降りてきたような文章になった。それでもまだ、この本がほかの誰かにとって面白いものになっているかどうか、自信はまったく持てないのだけれど。

この後は、いったん冷却期間を置いて、じっくり読み返してから、推敲とリライトに着手。年明けからは、本格的な編集作業が始まる。頑張らねば。やらねば。

革のブックカバー

書店で本を買う時、紙のカバーをかけてもらうことが多い。僕の場合、本は、電車での移動中や、喫茶店とかでの待ち時間に読むことが多いので、気兼ねなく持ち歩けるように、という理由で。特に単行本は自重もあるし、大きさもまちまちなので、店頭でカバーをかけてもらえると安心感がある。

ただその一方で、資源の節約という面ではどうなのかなとも正直思うので、書店でかけてもらったカバーでそれほど傷んでいないものは、家にストックしておいて、新しく読む本で再利用したりもしている。

文庫本に関しては、最近ふと思い立って、革のブックカバーを使ってみることにした。選んだのは、エムピウのブックカバー。革が柔らかくしなやかで、手触りもよく、使っていくうちにいい感じにエイジングされていきそうで、すでにとても気に入っている。自分の場合、財布と名刺入れとキーホルダーはエムピウ、PCスリーブとiPhoneスリーブとペンケースは国立商店と、頻繁に使う小物を革製品で揃えるのが好きなので、新たな仲間を加えることができた。

それでもまあ、ハヤカワ文庫のように他より少し大きなサイズの文庫には使えないので、紙のカバーには今後もある程度はお世話になっていくだろう。そう考えると、どんな本でもフレキシブルに対応して保護できてしまう日本の書店の紙のブックカバーというのは、偉大な文化だなあと思う。

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ドニー・アイカー『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』読了。1959年にソ連のウラル山脈で起きた謎の遭難事故の真相を追ったノンフィクション。よく調べて書かれた労作だと思うし、比較的可能性が高いと思われる遭難の原因も終盤に提示されている……のだが、読後感は正直、あまりよくなかった。たぶんそれは、ディアトロフ・フリークとでも呼べそうな著者の熱心な探求ぶり、書きっぷりに、「やましさ」や「うしろめたさ」のような思いが感じ取れなかったからだろう。ノンフィクションの物書きを生業とする者は、誰かの生死など繊細でネガティブな題材に取り組む時、自分がその題材をネタにしてしまうことに対する「やましさ」「うしろめたさ」を常に自覚しておくべきだと僕は思う(僕自身の仕事においてもそうだ)。その点はちょっと残念だった。

湯河原原稿執筆合宿、再び


来年の春頃に、新しい本を出すことになったのだが、肝心の原稿の進捗は、あまり捗々しくない。特に五月は、ほかの国内案件がわちゃわちゃと立て込んで、それらにすっかり時間を取られてしまった。

このままではまずいということで、伝家の宝刀(?)、原稿執筆ぼっち合宿を敢行することにした。今回の合宿地は、およそ四年ぶりの湯河原。前回もお世話になった、The Ryokan Tokyo YUGAWARAさんに滞在することにした。この宿には「原稿執筆パック」という宿泊プランがあって、一日三食の食事付き、コーヒーなど飲み放題、温泉にも朝晩入り放題という、僕にはおあつらえ向きの内容なのだ。料金は時期によって変わるが、安いタイミングを選べば、一日あたり一万円程度でも泊まれる。今回は、原稿執筆パック三泊四日のプランで滞在することにした。

部屋は八畳の和室。今の時期の湯河原は、思っていたほど暑くもなく、東京より涼しいくらい。日中は窓を網戸にしていると、涼しい風が入ってきて、遠くからの川のせせらぎと、うぐいすのさえずりが聴こえるだけの、とても静かな環境だった。