Category: Review

「光」

河瀬直美監督の最新作「」。視力を失いつつあるフォトグラファー、中森と、視覚障害者のために映画の音声ガイドを作っているライター、美佐子の物語。これは観ておかなければ、と思っていた。

観ていてまず感じたのは、光と影、そして一つひとつの物音が、とても丁寧に捉えられ、繊細に表現されているということ。観る者の感覚は映画の中に引き込まれ、自分自身を取り巻く世界のディテールを感じ取る。

次に感じたのは、僕たちはみな、別に何も違わない、同じ人間なのだ、ということだった。この世界には、目や耳、手足にハンディキャップを抱えている人、あるいは認知症などで思考や記憶にハンディキャップのある人もいるけれど、それぞれが、それぞれの世界を持っている。一人ひとり、みな違っていて、だからこそ、何も違わないのだと。

そして、観終わった後に思ったのは……大切なものを失っても生きていく、ということについて。

もし自分が、写真を撮ることができなくなって、あるいは文章を書くことができなくなって、それでも生き続けなければならないとしたら。そう想像した時、本当に背筋が凍るような感覚で、怖ろしくなった。普通に死を迎えるより、その方がずっとつらい。なまじ、こういう仕事をしているからではあるけれど。

人間は、大切なものを、ずっと抱えながら、そして時々失いながら、生きている。僕たちが生きていく先に横たわっているものは、希望なのか、それとも、あきらめなのか。それを簡単な言葉に置き換えたくはない。いつか終わりが来た時に、その人だけが感じ取れるものなのかもしれない。

「セールスマン」

イランのアスガー・ファルハディ監督の最新作「セールスマン」。監督と主演女優タラネ・アリドゥスティが、米国のトランプ政権が今年1月に中東7カ国からの入国制限を実施したことに抗議して、アカデミー賞授賞式のボイコットを表明したことでも話題を集めた作品だ。以前から何だか気になっていて、観なければ、と思っていた。

教師のエマッドと妻のラナは、小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の稽古に励んでいる。住んでいたアパートが突然損壊して、家を失ってしまった二人は、劇団のメンバーのつてで別のアパートに移り住む。前の住人が残していった気になる荷物。そして事件が起こる。アパートに一人でいたラナが、浴室で何者かに襲われて大怪我をしてしまったのだ。犯人を探し出そうといきり立つエマッドと、深刻なショックを受けて、表沙汰にはしたくないと拒むラナ。すれ違っていく二人の感情。やがて明らかになる、犯人にまつわる真実……。

この映画、観る者の予想を裏切る形で二転三転していくような、いわゆるサスペンスとしての謎解きの展開は、実はあまりない。言い換えれば、そういう点が逆に観る者の予想を裏切っているとも言える。一つの大きな事件を挟んで、物語は淡々と進む。明らかになる謎もあれば、あえてそのまま置き去りにされる謎もある。

深く傷ついた心が立ち直ることの難しさ。罪を許すか、許さないか。償わせるとしたら、どうすべきか。観終わった後、もやもやとした気持が残る。このもやもやこそが、監督がこの映画に込めようとしたことなのかもしれない、とも思う。

「タレンタイム 優しい歌」

東南アジアの国々の中で、マレーシアはまだ旅したことのない国の一つだ。正確には、飛行機の乗り継ぎでクアラルンプール空港には数回降り立っているが、イスラームを国教とする国なので、空港内でビールを飲める場所を探すのに苦労した記憶がある。そういう自分にとって未知の国で作られた映画、わずか6年間の活動期間の後に急逝したヤスミン・アフマド監督の遺作「タレンタイム」。予告編を観た時から「これは」と感じるものがあった。

「タレンタイム」には、多民族・多宗教国家であるマレーシアならではの複雑な事情を背景に持つ若者たちが登場する。イギリス系とマレー系のクォーターでムスリムの少女ムルー。インド系のヒンドゥー教徒で聴覚障害者の少年マヘシュ。末期の脳腫瘍に苦しむ母親の看病を続けるマレー系ムスリムの少年ハフィズ。転校生のハフィズに成績トップの座を奪われたことに悩む、中華系の少年カーホウ。年に一度の音楽コンクール、タレンタイムの日に向けて、それぞれの日々の物語が綴られていく。

何気ない日々の情景や会話のやりとりが淡々と描かれる様子は、この間観た台湾のエドワード・ヤン監督の作風を思い起こさせる部分もあるが、「タレンタイム」には穏やかに包み込むような監督のまなざしの暖かさを感じる。時折、リアリズムの枠をあえて飛び越えたような人物や演出が登場したり、たまにインド映画を思わせるノリがあったりするのも面白かった。何より、タレンタイムのためにムルーとハフィズがそれぞれ披露する「Angel」と「I Go」の2曲が、本当に素晴らしい。聴くだけで涙腺にぐっとくる。

民族や宗教、境遇、障害など、人と人との間はいろんな種類の見えない壁で隔てられている。でも、そうした壁は、けっして乗り越えられないものではない。互いにわかりあい、赦し合い、支え合うことで、辿り着ける未来はあるはず。監督が伝えたかったのは、そういうメッセージだったのだと思う。

「牯嶺街少年殺人事件」

台湾のエドワード・ヤン監督が1991年に発表した映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」。当時、日本では短縮版で公開されたものの、それ以来ソフト化されることもないまま、幻の作品となっていたという。その作品がデジタルリマスタリングされ、オリジナル版の尺で公開された。3時間56分。観始めたら、あっという間だった。まるで、映画の中に飲み込まれてしまったような気分だった。

この映画は、1961年に台北で起きたある殺人事件をモチーフにしている。当時の台湾では、第二次大戦後に中国から台湾に移住してきた外省人たちが、大陸に戻りたくても戻れない焦燥感にかられながら、穏やかながらも鬱々とした日々を過ごしていた。彼らの子供たちもまた、将来の見えない行き詰まり感に苛まれて、徒党を組んで他のグループと争い合っていた。そんな中でも、どちらかというと真面目だった一人の少年が出会った、一人の少女。そこからすべてが軋みはじめる。

少し前に見た同監督の「台北ストーリー」は、良い作品だなと思ったものの、観終えた後に、何か、もやっとする後味が残っていた。この「牯嶺街少年殺人事件」は、そこからさらに突き抜けて、監督自身が撮りたかったものを徹底的に撮り切った、そんな感触が伝わってきた。一切の感傷を排した冷静なまなざしで、一つひとつの場面が丁寧に描かれていく。当時の台湾が抱えていた社会の歪み。若さゆえのみずみずしさと危うさ。何気ない日常の中に突如現れる闇。激しい雨。血塗られた刃。

「私を変える気? この社会と同じで、何も変わらないのよ」

観終えてしばらくたった今も、映像と言葉の断片が頭の中で渦巻いて、うまく整理できないでいる。美しく、残酷で、どうにも忘れがたい映画だった。

「チャーリー」

昨年秋のキネカ大森での公開時、僕はタイ取材の真っ只中だったので観れないでいた、インドのマラヤーラム語映画「チャーリー」。昨日、ユジク阿佐ヶ谷での上映にようやく行くことができた。

都会で自由気ままに生きるテッサは、親が決めようとした縁談に反発して、コーチンにある古いアパートを借りて、しばらく身を潜めようとする。鍵も壊れているその部屋には、前の住人が置き去りにしたままの家財道具と、無数の奇妙な絵画やスケッチ、写真、オブジェがひしめいていた。チャーリーという名のその持ち主に興味を抱くようになったテッサは、一人、また一人と、彼を知る人物から、まだ会ったこともない彼についての物語を聞くことになる……。

いい映画だった。豪放磊落なのに超がつくほどのおせっかいのチャーリーはぐいぐいと物語を引っ張っていくし、ヒロインのテッサは本当に表情豊かでチャーミング。医師のカーニをはじめ、登場人物の中には心に深い傷を抱えている人も少なくないのだが、それでもみな、前を向いて再び歩き出そうとしている。ケーララ州の美しい風景が、そんな彼らを穏やかに包み込んでいく。

物語は、普通に考えるとありえないような確率での偶然の連鎖でつながっていくように見える。でも、偶然を偶然任せにしているだけでは、きっとあんな風には人と人は出会えないのだ。その人が勇気を持って踏み出す一歩が、偶然を必然に変え、人と人とを結びつけるのだと思う。

観終わった後、みんなで「いい映画だったね!」と笑い合いながら映画館を出られる映画は、間違いなく、いい映画だ。