いい仕事への対価

昨日の夕方、ガイドブック制作関連のメールがダダダッと届いて、それに対応するためにあれやこれやと動いていたのだが、どうにか落ちつく。今日は平穏な時間を過ごしている。ふー。

今作っているガイドブックでは、とても有能なスタッフの方々と組ませていただいていて、僕はすっかり大船に乗った気でいるのだが(早いって)、今回はいつにも増して、とても気持よく作業させてもらえている気がする。その理由を考えると、それぞれの作業のスペシャリストががっちりサポートしてくれる体制が整っているからだと思い当たった。編集は編集者さん、デザイン・レイアウトはデザイナーさん、地図製作は地図職人さん、校正は校正者さん、DTP作業と印刷は印刷会社さんといった具合に。

「そんなの当たり前じゃん」と言われそうな気もするが、最近の中小規模の出版社では、出版不況で予算が制約される関係で、編集者が校正まで全部やったり、細かいDTP作業までやったりするのが常態化しているのだ。多少の兼務なら効率化に役立つかもしれないが、大きなボリュームをがっつりとなると、時間的にも質的にも、やはり差が出る。そして、いろいろ兼務させられる編集者やデザイナーも、ギャラの上乗せどころか減額が提示されるという有様(涙)。

いい仕事には、それにふさわしい対価が発生するものだし、それが支払われるのが当然だと個人的には思う。各分野のスペシャリストたちがきっちり報われるような環境作りを、あきらめてしまいたくはない。同じ内容の仕事を昔のギャラの半額でやらせるような出版社の姿勢は、やはり間違っていると思うから。

ソーシャルが見せる幻

ちょっと前まで、世間ではソーシャルメディアという言葉がこれでもかというほどもてはやされていた。以前、僕がブログの作り方についての本を書いていた時も、版元の上層部から「ソーシャルメディアという言葉をタイトルにしろ」と、トンチンカンな提案をされたこともあるくらいだ(苦笑)。

そんなソーシャル狂想曲も、最近は少し世間の熱が冷めてきたように感じる。飽きてきた、というのもあるだろうし、FacebookにTwitterにミクシィにPinterestに‥‥そんなにたくさん面倒でやってられない、という人も少なからずいるだろう。ソーシャルなら何もかもうまくいく、ソーシャルなら何でもできる、という期待が必ずしも実現しないことに、気付いた人も増えてきているのかもしれない。

ソーシャルメディアは結局、今の時代のコミュニケーションのインフラでしかないのであって、現実を現実以上のものにすることはできないのだと思う。ソーシャル上でブレイクして有名になる人は、その人自身にそうなるべき魅力が備わっていたからであって、ソーシャルメディアはその手段の一つだったに過ぎない。売れないラーメン屋がしゃかりきになってTwitterやFacebookで宣伝しても、それでその店のラーメンがおいしくなるわけではない。

他人のツイートを読む気もないのに、フォロー返しをもらってフォロワーを増やすためだけに一度に何千人もフォローする人とか、あの手この手でFacebookページの「いいね!」を押させることだけに汲々としている企業とかを見かけると、他にもっとやるべきことがあるだろうに、とおせっかいにも思ってしまう。ソーシャルが見せる幻に、踊らされてるのだな。

春のホロにが

今週初めに取材した件の執筆を進める。ボリュームがそれほど大きくないので、夕方までにはだいたいメドがついて、ゆったり気分。ここのところ手抜き気味だった自炊を、ひさびさにしっかりやってみることにした。

友人たちとのアフリカ旅行帰りの母が、菜園で採れた野菜を送ってきてくれていた。その中に菜の花(といっても正確にはチンゲンサイの菜の花)が入っていたので、これをシンプルにおいしく食べてやろうと思い立つ。フライパンにオリーブオイルを熱し、スライスしたニンニクを入れて香りを移し、刻んだベーコンと菜の花を投入し、じゃじゃっと強火でさっと炒めて、どんぶりによそった炊きたてごはんの上に、どーんとのっける。仕上げに醤油をちょろっと回しがけて完成。「しっかりした自炊」と呼ぶにはほど遠い簡単さ(笑)。

しゃっきり炒めた菜の花は、どこかホロにがくて、それが何ともいえずうまい。苦味をうまいと感じるようになったのは、いつからだったのだろう。子供の頃は、菜の花を進んで食べようなんて、思いもしなかったのに。

自分らしい写真

写真家の石川梵さんが、「“決まり写真”はあまり好きではない。写真のよさは非演出の中にあるはず。現実は想像よりもずっと緩い」ということを書かれていたのだが、自分が日頃からうっすら感じていたことを言われた気がして、すとんと腑に落ちた。

僕自身、構図やポーズを作り込みすぎた写真というのはあまり好きではなくて、撮るかどうかは、その場の雰囲気や偶然に委ねてしまうところがある。狙って撮ることはあまりしないし、狙って撮る技術もあまりない。それは、専業の写真家として生きていくには致命的な欠点なのかもしれない。

でも、ラダックという場所で撮影の枚数を重ねてきた中で、僕が「自分らしい」と思える写真というのは、その場の偶然に身を委ねた中で、被写体との関係がたまたま映り込んだ写真なのかな、と感じている。自分の力でものにしたのではなく、対峙した人や風景に助けられた写真。その場所に、時間に、どっぷりと身を浸していたからこそ撮れた写真。あまり仕事にはならなさそうだけど(苦笑)、そんな写真をこれからも撮り続けていけたら、と思っている。

ラッシュアワー

今日は朝イチと午後イチに取材が一本ずつ入っていたので、早々と出かける。ラッシュアワーの中央線は怖かったので(苦笑)、新宿までだからと、三鷹始発の総武線に乗ることにした。プラットフォームでは、二本先の列車を待つ人たちが整然と列をなし、列車が来ると、ザッ、ザッ、ザザザッ、と、まるで軍隊仕込みのようなポシショニングからの整列乗車。一糸乱れぬ挙動とはこのことか。

新宿に着いたら着いたで、構内を行き交う人たちの歩くスピードが、昼間の倍くらい速い。なんでみんな、あんなにものすごいスピードで歩くのか。わずか数分のうちに、後ろから来た人にスニーカーのかかとを三回も踏まれ、靴ひもまで踏まれてほどけてしまった。あな恐ろしや。

ニッポンのラッシュアワー。毎日はこれを味わわなくてすむ生活を送れている自分に、少しホッとしている。