「カワイイ」がわからない

仕事の参考資料に、女性向けのカメラ雑誌を買った。

こういう雑誌を家でじっくり読むというのは初めての経験だったのだが、ある意味すごいなあと思ったのが、「カワイイ」に対する編集部のこだわりだ。子供、女性、ペット、花、小物、イルミネーション。あらゆるものをかわいらしく撮るためのコツやテクニックが網羅されている。それだけ世の中のカメラ女子の方々は、「カワイイ」写真に惹かれているのだろう。

正直、僕はそういう「カワイイ」写真の撮り方はよくわからない。そもそも、何が「カワイイ」かどうかの基準なのかがわからないし。僕が過去に撮ったラダックの子供の写真とかで、見る人に「カワイイなあ」と思ってもらえるものがあるとしたら、それは、元からかわいらしい子供にたまたま出会って、そのありのままの姿を、何も考えずに撮らせてもらっただけだ。

たぶん僕は、いつまでたっても「カワイイ」写真の撮り方がわからないままなんだろうな(苦笑)。

本を作ってナンボ

うららかな日和だが、終日、部屋で仕事。これから作る本に収録するインタビューのテープ起こしに黙々と取り組む。

一人で捌くには多すぎる作業量と厳しいスケジュールに日々追いまくられ、本当に完成するのだろうか、と途方に暮れる時も正直ある。でも、僕は今、自分が心の底から作りたいと思える本を作れているのだ。だから踏み止まれるし、作り続けられる。作りたい本のアイデアも気力も有り余っていたのに、何もさせてもらえずに苦しみ抜いた時期に比べれば、どうということはない。

やっぱり僕は、本を作ってナンボ、の人間なんだなと思う。

ねこぱんち

昨日は、とある用事でナロさん宅にお邪魔。会うのは一年以上ぶりになる。うららかな午後の日射しの下、縁側でひなたぼっこをしていたのでだいぶ眠そうだったが、それでもしばしの間、お相手をしていただいた。

羽根つきの毛糸玉のようなおもちゃを僕が手に持ってふりふりしていると、突然、ぱしぱし!とナロさんの白い手が連打で僕の手に飛んできた。お〜、これが噂に聞く「ねこぱんち」というやつか〜。

筋金入りの人見知りの箱入り娘であるナロさんに心を許してもらうのはなかなか難しいけど、まあ、これからもよろしくね(笑)。

インド映画の邦題に思う

海外の映画が日本で公開される時につけられる邦題は、昔も今もよく議論を巻き起こしてきた。たとえば、少し前に日本で公開されていた「ゼロ・グラビティ」。僕も先日のバングラデシュ行の時に飛行機内で観たのだが、あれを観た人の多くが「原題の“Gravity”の方がふさわしいんじゃない?」という感想を持ったというのが、よくわかる気がした。

で、インド映画に関しては、英語圏の映画に比べると、こうした邦題にまつわる問題がより生じやすいのは間違いないと思う。その黒歴史の最たるものが「シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦」だった(苦笑)。去年公開された「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」や「きっと、うまくいく」も、ネットでは否定的な反応もあったが、僕としては、苦労して日本語で補った結果としてのそういったタイトルだったのかなと、ある程度納得はしている。

ただ、今年夏に日本で公開される予定の映画「English Vinglish」につけられた邦題が、「マダム・イン・ニューヨーク」というものだと聞いた時は、さすがにがくっときた。邦題なのに日本語ですらなく、何の興味も魅力も感じられないカタカナ英語のタイトルとは‥‥。「English Vinglish」は熱心なインド映画ファンの間で前評判が高く、日本での公開が熱望されていただけに、なおさらだ。この作品をろくに理解してないどこかのお偉いさんが鶴の一声でつけてしまったのではないか、と勘ぐりたくなってしまう。原題をそのままカタカナで「イングリッシュ・ビングリッシュ」にしてしまった方が、よっぽどよかったのに。

邦題は、お客さんを集めるためになりふり構わず付けるものではない。その作品の魅力と価値を少しでも正確な形でお客さんに伝えるためのものだ。作品の魅力と価値をしょうもない邦題が損なってしまうようでは、何の意味もない。

こうなってくると、非常に心配なのが、「Yeh Jawaani Hai Deewani」だな‥‥(苦笑)。松岡環さんのブログでは「この青春は狂おしい」と訳されていたけど。さて、どうなることやら。

去り行く人

午後、八丁堀で取材。今日は春の嵐が来ると天気予報に脅されていたが、取材がスムーズに終わったこともあって、行きも帰りもほとんど濡れずにすんだ。これを書いている今、窓には雨粒がひっきりなしに打ちつけている。

取材に行く電車の中で、友人のご家族の訃報を知った。僕自身は数回お見かけしたことがある程度なのだが、去り行く人の報せは、何ともやりきれない。それが、どんな人のもとにも等しく訪れるものであったとしても。

僕たちにできるのは、これからの日々の中で、自分にできる何かを、一つひとつ、丁寧に積み上げていくこと。そうして生きていけること自体の有難さを、あらためて感じておかねばと思う。