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コピペに思う

他の人のツイートやFacebookでの発言を見ていると、時々、「あー、これ、コピペだ」という文面に出くわすことがある。

たとえば、何かの宣伝・告知目的で、いろんな人に対してかたっぱしからまったく同じ内容の文面のリプライを飛ばしたり、いろんなコミュニティのトピックにかたっぱしから同じ文面を投稿したり。同じ内容だからコピペするという意図なのだろうが、あちこちにまったく同じ文面が機械的に投稿されているのを見せられると、正直げんなりする。

結局、それは投稿する側の人が、そういうコピペをあちこちで見せられる側の人の心境を想像しようとせず、ただ自分の都合を通すことしか考えていないからだろう。自分自身が損をしていることに気付いていないのだろうか。

ニュースリリースとかは別として、ソーシャルメディアで同じ内容を何度かくりかえし伝える必要があるなら、一つひとつの文章をその都度ちゃんと書くべきだ。読み手はちゃんとその違いに気付く。

ベースキャンプとしてのブログ

今年はラダック関連でのメディアやイベントへの出演が相次いでいて、どうしてこんなことになったのか自分でも訝っているのだが(苦笑)、そういった出演の告知に奔走していてあらためて思うのは、ブログ「Days in Ladakh」の存在のでかさ。昨今流行のTwitterやFacebookより、ラダック関連の情報を欲しているコアターゲットの人々に、情報がより確実に届いているのを感じる。

Days in Ladakh」は開設してかれこれ六年にもなるが、人気を集めるためのトリッキーな施策は何もしていない。ラダックでの滞在記や写真、日本にいる間は現地からの情報を、ただひたすら積み重ねてきただけだ。それでも、少なくともラダックに関して定番のサイトとしてある程度認知してもらえているのは、ありがたいことだなと思う。自分がラダックにまつわる活動をしていく上でも、「Days in Ladakh」を拠点にできるのは、正直、とても安心感がある。何というか、ベースキャンプのような感じ。

今の時代、僕のようなフリーランサーが自力で活動を続けていくために、ある程度作り込んで整えたプラットフォームをWeb上に持っておくことは、やっぱりとても大事なのではないだろうか。ブログには、すぐに情報が流れ去ってしまうTwitterやFacebookにはない訴求力が確かにある。そういう土台を築くには、見た目のデザインとかよりも、まずは伝えたいことをコツコツと継続して積み重ねていくのが一番だと思う。

お金をもらうということ・その後

いい天気だなーと思ってたら、突然のスコール、そして虹。最近、妙な天気が続いている。

十日ほど前に言及したstudygiftの件だが、今日になってサービスの一時停止と支援金を返金することが発表された。

前のエントリーでは、件の女子大生をあれだけ最前線に押し出すのなら、炎上しないための配慮はすべきだったと書いたが、実はあれでも相当オブラートにくるんでいたようで(苦笑)、休学ではなく実は退学扱いになっていたとか、お金が集まっても再入学できるとは限らないとか、いろいろ残念な事実が後から露呈してしまった。率直に言って、件の女子大生も、周囲の関係者も、これでは世間に叩かれても仕方ないだろう。お金集めの動機と、そのやり方に対して。初めから、周囲のお金持の知人たちが、ニコニコ現金払いでお金を貸してやればよかったのだ。それを、動機にいささか無理がある人を看板にして新サービスを立ち上げて、うまいことやろうとしたりしたから、破綻したのだと思う。

しかし思うのは、あの若さで、195人の個人と26社の企業から支援を受けられるほどの人なら、別に無理して大学に再入学したりしなくても、普通に世の中を渡り歩いていけるんじゃね?ということ。大学を卒業することは、無駄ではないけれど、必須でもない。本当に実力のある人なら、人気の有無とか関係なく、ちゃんとやっていけるだろうに。

瑕ひとつない人生を送ってる人なんて、世の中にはいない。つまずいたら、自分で立ち上がればいいだけのことだ。

お金をもらうということ

今日ネット上では、studygiftという新サービスの話題でもちきりだった。学費の工面に困っていたり、何かの目標に挑戦したい学生を支援するサポーターを集めるためのオンラインサービス。サービスのコンセプト自体はまったく何の問題もなく、むしろ大いにやってくれればいいと思うのだが、そのローンチの仕方が、いささかまずかった。

最初に学費の支援を求めるという形で広告キャラクターのような立場でフィーチャーされたのが、しばらく前からネット上で人気の女子大生。InstagramやGoogle+ですごい数のフォロワーを持つ女の子で、起用(?)されたのもさもありなんという感じだった。ところが、彼女が学費の支援を求める理由は、「成績が下がってしまって奨学金を打ち切られてしまった」という正直すぎるものだったのがよくなかった。有名人がこういう弱みを見せると、世間は容赦ない。案の定、この件はネット上で格好の餌食にされ、炎上どころか血祭りに近い状態になった。

この件は、その女子大生が悪いというより、サービス提供元のスタッフの見込みが甘かったことに尽きると思う。広告キャラクターと呼ぶと否定されるのだろうけど、あれだけ彼女をフィーチャーして最前線に押し出しているのだから、こんな惨事にならないための準備(嘘をつけとは言わないが、オブラートにくるむくらいの大人の配慮)はすべきだったろう。それでも、人々に「彼女を助けたい」と思わせるほどの真摯さが伝わったかどうかはわからないが。

件の彼女の場合、元々有名なだけあって、それなりの金額が集まっているそうだ。でも、その代わりに、彼女はどれだけのものを失っただろうか。

人にお願いごとをしてお金をもらうということは、とても大変で、デリケートなことだ。クラウド・ファンディングであれ何であれ、システム的にうまく立ち回りさえすればお金が集まるなんてことは、ありえない。人の心を動かすには何よりも、真摯な理由がいるのだと思う。

ソーシャルが見せる幻

ちょっと前まで、世間ではソーシャルメディアという言葉がこれでもかというほどもてはやされていた。以前、僕がブログの作り方についての本を書いていた時も、版元の上層部から「ソーシャルメディアという言葉をタイトルにしろ」と、トンチンカンな提案をされたこともあるくらいだ(苦笑)。

そんなソーシャル狂想曲も、最近は少し世間の熱が冷めてきたように感じる。飽きてきた、というのもあるだろうし、FacebookにTwitterにミクシィにPinterestに‥‥そんなにたくさん面倒でやってられない、という人も少なからずいるだろう。ソーシャルなら何もかもうまくいく、ソーシャルなら何でもできる、という期待が必ずしも実現しないことに、気付いた人も増えてきているのかもしれない。

ソーシャルメディアは結局、今の時代のコミュニケーションのインフラでしかないのであって、現実を現実以上のものにすることはできないのだと思う。ソーシャル上でブレイクして有名になる人は、その人自身にそうなるべき魅力が備わっていたからであって、ソーシャルメディアはその手段の一つだったに過ぎない。売れないラーメン屋がしゃかりきになってTwitterやFacebookで宣伝しても、それでその店のラーメンがおいしくなるわけではない。

他人のツイートを読む気もないのに、フォロー返しをもらってフォロワーを増やすためだけに一度に何千人もフォローする人とか、あの手この手でFacebookページの「いいね!」を押させることだけに汲々としている企業とかを見かけると、他にもっとやるべきことがあるだろうに、とおせっかいにも思ってしまう。ソーシャルが見せる幻に、踊らされてるのだな。