Category: Essay

「クイーン」に罪はないけれど

昨日は、インド映画「クイーン」本国版をシネマート新宿に観に行った。作品自体は以前エアインディアの機内で観て、このブログに簡単なレビューも書いているが、日本語字幕つきで映画館の大きなスクリーンで観ると、この作品のよさがあらためてわかった。これまでに日本で公開されたインド映画の中でも、十指か、人によっては五指に入る良作だと僕は思う。

ただ、シネマート新宿での客の入りは、公開2日目で休日ということを考えると、正直、非常に寂しい状況だった。不入りの原因はとてもシンプルで、配給会社のココロヲ・動かす・映画社○(以下ココロヲ社)による事前告知とプロモーションが、ほとんどまともになされていない状況だからだ。

クイーン」は当初、2017年の春頃から国内で順次公開される予定だったそうだ。だが、ココロヲ社が同時期に吉祥寺で開業しようとしていた映画館、ココロヲ・動かす・映画館○(通称ココマルシアター)が、諸々の見通しの甘さと準備不足により開業を大幅に延期(そのちょっとありえないほどグダグダな顛末はこちらのまとめが詳しい)。「クイーン」もココマルシアターのトラブルのあおりを受け、結果として半年以上も公開が先送りされることになってしまった。

ようやく「クイーン」が公開されたのは、2017年10月下旬、ココマルシアターと横浜のシネマ・ジャック&ベティで。ココロヲ社による公開前のマスコミ向け試写会は行われず、メディア露出はおろか、予告編、ポスター、チラシ、作品の公式サイト、各種SNSなどの準備もほとんど整わないままでの上映開始。しかも公開されたのは、場面のつなぎに大きな矛盾がある短縮版であることが判明。それをブログで指摘したアジア映画に関する第一人者である松岡環さんに対するココロヲ社側の対応も、いささか礼を欠いていたと言わざるを得ないものだった。

その後、配給先からの強い要望もあってか、2018年1月から公開されるバージョンはインド本国版に変更されることが決定。だが、2017年11月から12月にかけて実施されたマスコミ向け試写会で上映されたのはなぜか短縮版。その上、プレスリリースやチラシなどに掲載されていた「クイーン」のあらすじを紹介するテキストが、インド映画のレビューで有名なポポッポーさんのブログに掲載されていたレビューのテキストをそのまま剽窃したものであったことまで露呈してしまった。結果的に、ココロヲ社は「クイーン」に関して、作品の印象を貶めるようなネガティブな行為ばかりくりかえしていたことになる。

映画自体に罪はない。だが、日本での配給会社であるココロヲ社の罪は重い、と僕は思う。作品の作り手たちに対する敬意も、作品のファンたちに対する誠意も、作品を預かる配給会社としての熱意と責任感も、すべてがあまりにも希薄だ。今もその自覚がないのなら、映画の配給からは金輪際、手を引いてほしいと思わずにいられない。でないと、映画が可哀想だ。

タフでありたい

以前、レーのノルブリンカ・ゲストハウスに泊まった日本人の方がメールで教えてくれたのだが、その人がデチェンに僕はどんな人間なのかと訊いたところ、デチェンは「タカ? タカはね、なかなかタフだよ」と答えたのだという。僕にとって、それはある意味、最上級の褒め言葉だ。実際、自分はタフかと問われたら、そうでもない、と答えると思うけど。

何かを誰かと競い合って、それを勝ち取りたい、周囲よりも優れた存在でいたい、とは、正直まったく思わないし、興味も湧かない。ただ、願わくば、タフでありたい、とは思う。ここで言うタフネスとは、単なる身体の強さというより、「人が人として生き抜くための強さ」だと僕は思う。生活をきちんと自己管理できる几帳面さ。面倒な作業でも粘り強く続けられる集中力。そのへんにあるものでささっと料理ができる腕前とか、何気ない会話で人の心を解きほぐせる気遣いとか、それから……。人としてまっとうに生き抜くために必要なことは、日々の暮らしの中に、本当にたくさん潜んでいる。

だから僕は、タフでありたい。今よりもタフになれたら、他の人に対しても、もっと何かをできる余力が生まれるかもしれないから。

生き方を自分で選ぶということ

年末年始に実家方面の人間たちと会った時、何かと話題に上っていたのは、春から高3になる姪っ子の進路についての話だった。

岡山で中高一貫の進学校に在学している姪っ子は、周囲の優秀な子たちと相対的に比べられることもあって、学内での成績はあまり良くはないそうだ。本人の勉強に対するモチベーションも、あまり高そうには見えない。将来、具体的に何かやりたいことがあるというわけでもなさそうだ。

母親(=僕の妹)をはじめ、周囲の大人たちは、半ば腫れ物に触るようなおっかなびっくりさで、それでも姪っ子の進路を案じている。その気持もわからないではないけれど、僕個人は正直、彼女がどこの大学に行こうが、何の職業に就こうが、ある意味、どこでも何でもいいと思っている。そんなことは、後からいくらでも取り返しがきく。生きていて、状況が許すかぎり、勉強はいつでもどこでだってできるし、仕事も何度でも変えられる。

特に若い時、やり方としてよくないのは、難しいから、苦手だから、という消極的な理由だけで、消去法で選択肢を狭めていってしまうことだと思う。考え抜いて選ぶべきなのは、大学でも、職業でもない。自分はどういう生き方をしたいのか、ということだ。周りの大人が「あなたはこうすれば大丈夫だから」と選択肢をあてがってやるのでは、まるで意味がない。それだと、失敗した時に他人のせいにしてしまう。自分自身で選び取った生き方なら、失敗しても自分の責任だと思えるし、その失敗を何らかの糧にして再び立ち上がることもできる。

生き方を選べる境遇にいるのなら、選ぶべきだ、自分自身で。生き方を消去法の他人任せにしたら、きっと一生後悔する。

ちっぽけな思いから

最初に、自分一人だけで一冊の本を書こう、と思い立った時、心に決めていたのは、自分という人間の存在ができるだけ表に出ないようにしよう、ということだった。

自分の目の前で起こる出来事の一つひとつを丹念に見定めて、文章と写真で、それらをできるだけ忠実に描写する。個人的な感傷や思い入れで邪魔しないように気を配りながら、言葉を選ぶ。自分という人間が何者なのか、読者にはまったく気にされなくて構わない。そう思いながら、本を書き上げた。

そうして完成した本を読んだ僕の知り合いの何人かは、異口同音にこう言った。この本は、まぎれもなく、あなたの本だ。この本には、あなたの思い入れが、これ以上ないほどあふれている、と。そんな感想が返ってくるとは想像もしていなかったので、僕はすっかり面食らってしまった。

世界のとある場所とそこで暮らす人々のことを、徹底的に追いかけて、ただひたすらにそれを伝えようとしていたら、そこに立ち現れたのは、僕という一人のちっぽけな人間の姿だったのだ。

だったら、その逆は、あるのだろうか。

僕という一人の人間の、本当に個人的な、ちっぽけな思いから、遥か彼方への旅を始めたら、その先は、どこにつながっていくのだろうか。この世界の、底の見えない深淵につながっていくのだろうか。何かの理が、目の前に現れたりするのだろうか。

その旅は、もう始まっている。

旅の中でのルーティン

昨日、本の執筆に取り組んでいる時の生活のルーティンについて書いたが、海外に旅に出ている時は何の縛りもなしに過ごしているのかというと、意外と旅の中でも、行く先々で自分なりのルーティンを見つけて、それに沿って過ごしているような気がする。

たとえば、毎朝、宿のロビーで小さなトーストをかじりながらコーヒーをすすったり。毎日同じ道を散歩しながら、同じアングルで違う色の空の写真を撮ったり。いつのまにか顔なじみになった食堂で、注文する前に何のメニューかをウェイターに言い当てられたり。

知らない街を訪れて、あちこち動き回りながら何日か過ごしていると、しぜんと自分にとって心地よいルーティンが生まれてくる。それをくりかえすことに、僕は一種の愉しさを感じている。そんな風にして、同じ場所で同じルーティンをしばらく続けるパターンが、僕の場合は結構多い。

そんな愉しいルーティンにも少し飽きてきたら、次の場所に移動する頃合いだ。