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invictus.jpgインビクタス」とは、ラテン語で「不屈」を意味する言葉。かつて、ネルソン・マンデラが27年間に及ぶ獄中生活を送っていた時、心の支えにしていた詩の題名なのだという。

舞台は、アパルトヘイト(人種隔離政策)から民主主義へと移行しはじめたばかりの南アフリカ。白人と黒人との間の反目は依然として根深く、国内では混乱が続いていた。そんな中、初の黒人大統領となったネルソン・マンデラは、1995年に自国で開催するラグビーワールドカップで南アフリカが優勝することこそが国内の融和に繋がると考え、代表チーム「スプリング・ボクス」の主将、フランソワ・ピナールを大統領官邸に招く。そこから、後に奇跡と呼ばれる快進撃が始まる――。

これは、単にスポーツを題材にしただけの映画ではない。ネルソン・マンデラという不屈の魂の持ち主が、自らの信念を貫くことで、憎悪と不信にまみれていた4300万人の人々を、南アフリカ国民として一つにまとめていく軌跡を描いた映画だ。実話を基にしているとはいえ、物語自体は、王道といえばあまりにも王道な展開。だが、監督のクリント・イーストウッドによる人物や場面の細やかな描写は、陳腐さを微塵も感じさせず、観る者をグイグイと惹き付けていく。主演のモーガン・フリーマンやマット・デイモンの抑制の効いた演技も素晴らしい。

今回あらためて思い知らされたのは、ネルソン・マンデラという人の懐の深さ。27年間も投獄され続けていたのに、白人を憎むのではなく、赦すことで国を一つにしようと考えるなんて、並の人間にできることではない(その点ではダライ・ラマ法王にも共通するものを感じる)。彼はその信念を貫くが故に、家族との関係さえもうまくいかなくなり、そのことで思い悩んだりもする。だが、彼の信念は、ラグビーワールドカップという舞台装置を得て、ついには国を一つに結束させる。ラスト20分間のクライマックスに繋がっていくそのプロセスで、一人ひとりの心が次第に解きほぐれていくさまは、本当に感動的で、観ていて胸が熱くなった。

エンドロールの冒頭で、街の広場でラグビーをして遊んでいる黒人の若者たちが映し出される。映画のスタッフが偶然街で見かけて撮影したのだそうだ。この映画を象徴しているような、美しい光景だった。

door_into_summer.jpgこの「夏への扉」を買ったのは、偶然といえば偶然だった。近所の本屋をぶらついている時、海外小説の棚の前に平積みされていた淡いブルーの表紙がたまたま目に入ったのだ。手にとってぱらぱらめくってみると、装丁も文字組もとても感じのいい本だなという印象。いったんは本を元の場所に戻してエスカレーターに向かって歩きかけたのだが、何だか気になってしまって、くるっと戻って本を手にとり、レジに向かった。

偶然といえば偶然。でも、読み終わった今では、出会うべくして出会った本だったような気もする。

僕も学生の頃は、レイ・ブラッドベリを中心にSF小説を読みあさっていた時期があったが、ロバート・A・ハインラインのこの代表作はなぜか読んだことがなかった。まず感心したのは、構成の素晴らしさ。コールド・スリープとタイム・トラベルを軸としたSFの王道を行くストーリーは非常に精緻に組み上げられていて、何気ない描写やディテールがことごとく伏線となり、結末に向けて見事に収斂していく。ページをめくって読み進めていくと、「ああ、そうか!」と思わせられる場面の連続で、それが何ともいえず心地いい。主人公のダンや猫のピートをはじめ、登場人物の描写も細やかで魅力的だ。小尾芙佐さんによる新訳の文章は端正でとても読みやすく、一語々々丁寧に訳されていることが伝わってきた。

夏への扉」が上梓されたのは1957年。物語の中では核戦争を経験した1970年と、それから30年後の2000年の世界が描かれている。現実の世界ではそれも10年前の過去になってしまったが、物語の中で描かれた未来予想図と比べると、それよりはるかに進んでいる面もあれば、遠く及ばない面もある。ロボットや宇宙旅行から日常生活のちょっとした小物に至るまで、現実のテクノロジーとの違いを比較して楽しめるのも、こうした古典的SF小説ならではの醍醐味だろう。

ロバート・A・ハインラインが描いた未来は、明るく洗練されていて、幸せと希望に満ちあふれていた。未来こそが自分本来の時代だ、とダンは言う。だが、2010年を迎えた現実の世界は、どうもあまりうまくいっていないように思える。誰もが「このままではいけない」とうすうす感じつつも、それを変えることができず、閉塞感が蔓延している。人間は、そろそろ本気で知恵を絞って、譲るべきところは譲り、力を合わせるべきところは合わせていかなければならないのかもしれない。

FREITAG F22 iPhone SLEEVE

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freitag_f22.jpg

iPhoneを使いはじめて、一年になる。仕事もプライベートも、今やiPhoneなしの生活というのはちょっと考えられないし、出かける時はいつでもどこでも持ち歩いているのだが、いつも気になるのは、どうやってこの傷つきやすい本体を保護するかということ。今まではパワーサポートのエアージャケットという薄くて透明なカバーを装着していたのだが、そのカバーもすっかり傷まみれのみすぼらしい状態になってしまったので、何かいい後釜はないものかと探していた。

そんな折、誕生日祝いにもらったのが、フライターグのiPhone用ケース「F22 iPhone SLEEVE」。この会社はスイスでメッセンジャーバッグなどを作っているメーカーなのだが、その製品の素材は一風変わっていて、使用済みのトラックの幌やシートベルト、タイヤチューブなど、ほとんどが再利用されたもの。だからメッセンジャーバッグなどは、使われるトラックの幌によって絵柄が一点々々異なる。その荒々しい質感と一点モノ的なレア感から、日本でも人気のメーカーだ。

そのフライターグがiPhone用のケースを作っているとは全然知らなかったのだが、使ってみると、なるほど、よくできている。いわゆる封筒型のケースで、何もつけていない状態のiPhoneを押し込むと、ぴったりと収まる。ケースのストラップを引っ張ると、にゅるっ、という感触で取り出せるのが気持ちいい。外側はトラックの幌だが、内側はベルベット素材なので、iPhone本体に傷がつく心配もない。

何より、このケースを使うことで、iPhone本体に余計なカバーをつけずに使えるのがうれしい。何もつけていない状態でiPhoneを手に持った時の感触は、何とも言えず心地いいのだ。アップルのエンジニアが計算し尽くして作り上げた製品なのだから、そのまま使えるなら、それに越したことはない。

これでまたiPhoneへの依存度が増大しそうだ‥‥(笑)。ちなみに僕が持っているのは青色。

livealive.jpg六年前に刊行されて以来ロングセラーとなっている西村佳哲さんの「自分の仕事をつくる」。その続編(西村さん自身は「補稿」と書かれている)にあたる「自分をいかして生きる」を献本していただいたので、さっそく読ませていただいた。

前作は、柳宗理さんや馬場浩史さん、甲田幹夫さんなど、さまざまな仕事をしている人々へのインタビューを中心に構成されていた。今回の「自分をいかして生きる」は、いくつかのインタビューやコラムは含まれているものの、主に西村さん自身の言葉で「働き方」と「生き方」についての考察が語られている。文章はけっして堅苦しいものではなく、西村さん独特のふわっとした柔らかい文体で、すらすらと読みやすい。そしてその中には、何年間も思索を重ねる中で掴み取ってきたに違いない、含蓄のある言葉が含まれている。

「いい仕事」とは、その人が「いる」感じがする仕事。人が「より生きている」ようになることを助ける働き。「好き」だけではすまない、自分の中で「ザワザワする」「お客さんではすまない」部分を掘り下げてみる。「自分」が同時に「わたしたち」でもあるような感覚で取り組めるかどうか。「自分をころして生きる」と「自分をいかして生きる」という二つのあり方が並んでいたら‥‥。

僕自身が「リトルスターレストランのつくりかた。」という「働き方」や「生き方」をテーマにした本を書いた直後だったこともあるが、この「自分をいかして生きる」を読んでいると、至るところで「そうそう、そうですよね!」と腑に落ちる言葉に出会うことが多かった。もっと言ってしまうと、ここ数年の自分自身の「生き方」――雑誌を中心に活動するフリーライターとして恵まれた仕事をさせてもらえていたのに、それらをすべて放擲して、一冊の本を書くためにラダックに行き、帰国後も自分で企画した書籍の仕事に絞っていることが、間違ってはいなかったと再確認できたような気がする。

西村さんが書いた本を読んでいるのに、まるで、自分の話を西村さんに聞いてもらっているような‥‥そして西村さんに「そうか、そんなことがあったんですか。それはもしかすると、こういうことなのかもしれないですね‥‥」と穏やかに相槌を打ってもらっているような、不思議な感じのする本だった。

奥華子「花火」

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hanabi.jpg花火」は、2004年にリリースされた奥華子のインディーズ時代のファーストシングルだ。2000枚限定で販売されたこのCDは、再販を望むファンの声も多かったのだが、なかなか実現せず、中古市場では十数万円という異常な高値がつけられるほどだった。その「花火」が、今年の夏、ようやく再販された。

楽曲自体は以前YouTubeなどで耳にしたことはあったが、ちゃんとした音源であらためて聴いてみると、いい曲だなあ、と思う。甘いようで甘すぎず、せつないようでどこかさらりとしていて、聴き終わった後も、じんわりと余韻が残る。

このCDが作られた頃、奥華子はまだ路上でキーボードを弾きながらたった一人で歌っていた。自分の歌は本当に人の心に届いているのか。自分はこれからどうなるのか。何から何まで不安だらけだったに違いない。でも、その頃の必死の努力が実を結び、彼女は一年後にメジャーデビューを果たす。以来、地道に経験を積んで安定感を増してきた今の奥華子と比べると、この「花火」を歌っている彼女の声には、ぽきっと折れてしまいそうな危うさと、変わらなければ、何とかしなければ、というひたむきさがにじみ出ているような気がする。逆に言えば、その危うさ、ひたむきさが、この曲が纏う、えもいわれぬ魅力の一因になっているのかもしれない。

「通り過ぎてく風の向こうに答えがあると信じていた」

この歌詞を聴くと、個人的に昔のちょっと苦い記憶が甦るので、なおのことせつない(苦笑)。

live_in_living09.jpg今年もまた、このアルバムを手にする時がやってきた。

羊毛とおはなは、ボーカルの千葉はなとギターの市川和則によるアコースティック・デュオ。最近ではいくつかのCMソングを手がけるほどメジャーになった二人だが、彼らは2007年から、ほぼ歌とギターのみでライブ録音したアルバム「LIVE IN LIVING」を毎年リリースしている。先日発売された「LIVE IN LIVING '09」も期待に違わぬ出来だった。

ふわっとしていながら、すーっと伸びやかに響く歌声。つまびく指使いが目に浮かんできそうな、心地よいギター。これ以上ないほどシンプルな音楽が、文字通り「おうちの居間で演奏しているような」感触で奏でられている。本当に、すぐそこにあるソファに坐って演奏してもらってるんじゃないかと思えるほどの、独特の空気感。シンプルであるが故にごまかしが効かないこのスタイルで、この空気感、この心地よさを保ち続けるというのは、なかなかできることではないなと思う。

オリジナル曲とカバー曲がほぼ半々で構成された今回のアルバムでは、タイマーズの「デイ・ドリーム・ビリーヴァー」のカバーなどもよかったが、個人的に特に気に入ったのは「僕は空にうたう」という曲。薄く梳いたような雲が流れる空に、くるくると舞い上がっていく風。ソファにもたれてぼんやりとこの曲を聴いていると、そんな情景が脳裏をよぎった。

一つ苦言を呈するとすれば‥‥今回のCDジャケット、ちょっと凝り過ぎでは? 帯を外して広げると一枚の大判の紙になるという構造で、歌詞やクレジット、手書きの楽譜などが印刷されているのだが、何しろ普通の薄手の紙を折り畳んだだけなので、CDジャケットとしてはあまりにも強度がなさすぎる。広げる時にもうっかりベリッと破いてしまいそうで、かなり怖い。普通の厚紙の紙ジャケの方がよかったのではないだろうか。

いつか、彼らのライブに行けたらいいなあと思う。大きな会場ではなく、カフェとかの小さな会場で‥‥そうだ、リトスタあたりで(笑)。

「サマーウォーズ」

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©2009 SUMMERWARS FILM PARTNERS

今年の夏休み、何か一本だけ映画を観るというのなら、迷うことなくこの作品を推す。

2006年に大ヒットした「時をかける少女」の細田守監督が、当時の制作スタッフを再結集させて作ったのが「サマーウォーズ」だ。数日前に完成したばかりのこの映画のブロガー向け試写会が開催されるというので、メールで応募してみたら、何と当選。昨日の取材の帰りに観てくることにした。

teseibon.jpg「今度、こんな本を出すんですよ!」と、美術出版社の宮後優子さんが目を輝かせながら教えてくれたのが、この「はじめての手製本 製本屋さんが教える本のつくりかた」という本だった。手製本、つまり手作りの本。信州にある工場で手製本を作り続けている家族経営の会社、美篶堂(みすずどう)の方々が、本を自分で手作りするためのさまざまな方法を紹介している本だ。

最初にこの本を手にした時、「うわっ、やられた‥‥!」と、嫉妬にすら近い感情を感じた。なぜなら、この本自体が、美篶堂の方々による手製本なのだ。本文をくるむようにして表紙を貼って折り込むフランス装という手法で製本されたこの本は、しなやかで張りのある紙の質感が心地よい、とても美しい佇まいの本に仕上がっている。セキユリヲさんによるさりげないアートディレクションも、さすがの一言。

本の中では、和綴じの本、上製本、豆本、アコーディオンアルバムの作り方や、文庫本を上製本に仕立て直す方法などが、丁寧に手順を追った写真とともに紹介されている。御茶ノ水にある美篶堂のギャラリーショップで開催されている製本教室で教えられている内容をまとめたものだが、手が不器用な僕でも「道具があればちょっとやってみたいかも‥‥」とうずうずするくらいだから、こういう手作りの作業が好きな人には、たまらない内容なのではないだろうか。

本の後半に収録されている美篶堂にまつわる物語も興味深かった。手製本から機械製本へと向かう世間の流れの中で、あえて踏み止まり、ものづくりの素晴らしさ、大切さを受け継ぎ、伝えていく。その職人としての覚悟と心意気を持ち続けることは、並大抵の苦労ではなかったはずだ。

この瀟洒な本には、そんな美篶堂の方々が伝えたい思いやメッセージが、ぎっしりと詰まっている。一人の編集者として、こんな本に携わることができたなら、どんなに幸せなことか‥‥。売れ行きもなかなか好調らしい。でも、重版が決まったらどうするんだろう? なにしろ、手製本だから‥‥(笑)。

moritohyogatokujira.jpgラダックの本を書き終えてから、急に思い出したかのように、星野道夫さんの本を読み漁るようになった。

星野さんの写真や文章は自分が学生の頃から目にしていたし、当時バイトしていた雑誌の編集部では、星野さんのインタビューのテープ起こしをしたこともある。直接お会いすることはできなかったけれど、その柔らかい声で語られるアラスカの自然や人々の描写は、自分が見知っている世界とあまりにもかけ離れていて、想像力が追いつかなかった。

そのせいかどうかわからないが、僕はこれまで、星野さんの本を真正面から読むことを無意識のうちに避けていたのかもしれない。写真や文章に込められているものが途轍もなさすぎて、ろくに咀嚼もできないまま、「うわあ、すごい」と圧倒されるだけで終わってしまいそうな気がしたのだ。

でも、二年間を費やしてラダックの本を書き上げた後、ふと「今なら、星野さんの本をきちんと読めるんじゃないか」と思うようになった。星野さんにとってアラスカがかけがえのない場所であったように、今は僕の中にもラダックという場所がある。だから、以前よりはしっかりと星野さんの思いを読み取ることができるのではないか、と。

何冊か読んだ中でも特に印象に残ったのは「森と氷河と鯨」という本だった。アラスカのクリンギットインディアン、アサバスカンインディアン、そしてエスキモーの人々までが語り伝えているワタリガラスの神話。星野さんは南東アラスカから遥か彼方のシベリアまで、さまざまな自然や人々と巡り会いながら、その神話の由来を追いかけていく。蒼空に屹立する鯨の骨、朽ち果てたトーテムポール、崩落する氷河、古の血を受け継ぐ人々。凄みを感じるほど研ぎすまされた写真と、深い思索の中から浮かび上がってきた言葉――。その一枚を撮るのに、どれほどの時間と労力を費やしたのか。その一言を絞り出すのに、どれほどの思いを巡らせたのか。想像しただけで気が遠くなる。正直、これを自分の本を書く前に読んでいたら、あっさり自信喪失してしまっていたかもしれない(苦笑)。

別の本の中で、星野さんは「人間には、二つの大切な自然がある」ということを書いている。一つは、道端の草花や近所を流れる川などといった身近に存在する自然。もう一つは、遥か遠くに、でも確かに存在する悠久の自然。滅多に行くことはできないけれど、そこにあると想像するだけで心が温かくなるような自然だという。その言葉の意味が、今は本当に骨身に沁みてよくわかるような気がする。そしてこの「森と氷河と鯨」は、その遥か彼方の悠久の自然――星野さんにとってのかけがえのない場所と、とことんまで向き合い続けた努力の結晶なのではないかと思う。

家庭画報」に連載されていたフォトエッセイをまとめたこの本は、未完のまま終わっている。連載終了まであと三回というところで、星野さんはカムチャッカ半島での取材中にヒグマに襲われ、命を落としてしまった。庄司康治さんは「氷の回廊」の中で、星野さんについてこんなことを書いている。

「ミチオはアラスカの老人の魂に興味があって、そのルーツを辿っていたんだよなぁ。ヒマラヤの人にも何か近いものを感じるって言ってたよ。あいつに紹介したかったな、このザンスカールの人たちを‥‥」

僕も、心からそう思う。もし、星野さんや庄司さんと一緒にラダックやザンスカールの山々を旅することができたなら、どんなに愉しかったことだろう。

slumdog_millionaire.jpg痛快無比の娯楽大作、と何のためらいもなく呼べる映画をひさしぶりに観たような気がする。

2009年のアカデミー賞でオスカーを総なめにしたこの「スラムドッグ$ミリオネア」は、決して順風満帆な船出だったわけではない。一時は北米での配給会社を失う危機に晒され、あやうくお蔵入りになるところを別の配給会社に救われたものの、最初はわずか10館の上映でのスタートだった。それが評判が評判を呼び、あれよあれよという間に頂点にまで駆け上がってしまった。

インド・ムンバイのスラム街で生まれ育った少年ジャマールは、ある時、テレビの人気番組「クイズ・ミリオネア」に出演する。「スラム育ちのお茶汲み」と司会者に蔑まれながらも、ジャマールは次々と難問をクリアしていき、ついに最後の一問にまで到達。無学な彼にクイズの答がわかるわけがない、インチキをしているのだ、と怪しまれたジャマールは、警察に連行されて拷問まで受ける。だが彼は、何の不正もしていなかった。すべての答えは、彼がこれまで生き抜いてきた、苛烈な人生の中で巡り会ってきたものだったから――。

この映画の原作となった「ぼくと1ルピーの神様」という小説は未読なのだが、映画では原作の設定を踏襲しつつ、映画向けに内容をかなりリファインしたらしい。監督を務めたのはダニー・ボイル。「トレインスポッティング」は個人的にあのスタイリッシュさが鼻について正直ちょっと馴染めなかったのだが、この「スラムドッグ$ミリオネア」では、彼が得意とする疾走感のある演出が混沌とエネルギーに満ちたインドで一気に解き放たれ、本場のボリウッドムービーをどこか彷彿とさせるような、見る者をグイグイと引き込む素晴らしい映像に仕上がっている。

話としては、確かに出来過ぎ(笑)。でも、インドの最下層のスラム街の苛酷な現実と、そんな中でもたくましく生き抜いている少年たち(子役は現地のスラム街でスカウトされたのだという)の瞳が、些細なことをすべて忘れさせる。さまざまな困難をはねのけ、突っ走っていく先に待ち構えている、お約束の、でも圧倒的なカタルシス。みんなが熱狂するのも無理はない。

‥‥やはり、最後のライフラインはあれだったか(笑)。

Bose in-ear headphones

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in_ear_headphone.JPG去年からiPhoneを使っているのだが、付属している純正のイヤホンがどうも耳に合わない。音がペラペラなのはまあ我慢するとしても、つけているうちに耳の中で微妙にずれてしまう。もともと通話はほとんどしないので、イヤホンのマイク機能はなくても構わないと判断して、新しいイヤホンを買うことにした。

最初はShureなどのカナル型イヤホンにしようと思ったものの、あの耳栓のごとき物体を耳の穴の奥に押し込むというのは、なんとなく生理的に受け付けない。そこで候補に挙がったのが、Bose in-ear headphonesだ。耳の奥まで押し込まなくてもいいインイヤー型で、以前より若干改良されて価格も下がっている。店頭で試聴してみてもなかなかいい印象だったので、思い切って購入してみることにした。

ネット上でのユーザーレビューを見ると、このBose in-ear headphonesの評価は面白いくらい真っ二つに分かれている。イヤホンの音の評価というのは、本当に人の好みによって左右される場合が多いが、このイヤホンの場合は耳に装着する際の加減にも影響されているような気がする。耳の穴にぎゅっと押し込んでしまうとダメなのだ。耳たぶのくぼみに、ひょっとこの面のような形をしたシリコン製イヤーパッドを載せて、ひょっとこの口に相当する部分がゆるく耳の穴に差し込まれているくらいでちょうどいい。無理に押し込むと、音がくぐもってしまう。

個人的に音質の評価をあえてさせてもらうとすれば、「余裕のある音づくり」といった印象だろうか。高音域は不自然にキンキンと響くこともなく、中音域はしっかりと音像を結び、低音域はこんなにも音が潜んでいたのかと思うほど豊かに響く。どこにも無理をしているところがない。どんなジャンルの音楽を聴くかにもよるだろうが、少なくとも僕にはとてもしっくりとくる。

ただ、イマイチ気に入らないのは、イヤホンのコードが黒と白のツートンカラーになっている点。これ、ちょっとやり過ぎなんじゃないか? 外でつけていると目立ち過ぎる(笑)。

che.jpgスティーヴン・ソダーバーグがチェ・ゲバラを題材にした映画を、それも二部作で撮ったという話を聞いて思ったのは、それらは今という時代に撮られるべくして撮られた映画だったのかもしれない、ということだった。この、何もかもが行き詰まって無力感が漂う時代に生きている人々が、20世紀を象徴するカリスマであった彼のような存在が現れるのを、心のどこかで待ち望んでいるのだ、と。

チェ 28歳の革命/39歳 別れの手紙」は、ベニチオ・デル・トロがチェを(凄まじいまでの迫真の演技で)演じている映画でありながら、ある意味、ドキュメンタリーに近いアプローチで作り上げられた映画だ。生存者への取材や現存する資料のリサーチには7年間を要し、映画の中で描かれている大小さまざまなエピソードには創作されたものは一つもなく、すべてが証言やリサーチに基づいて丹念に組み立てられたものだという。

そのためか、この二部作にはいわゆる映画的に演出された展開や台詞はあまり登場しない。国連総会で歴史的な熱弁をふるうチェも、行軍中に喘息の発作を起こして弱々しく咳き込むチェも、家族と過ごす最後の夜に妻に膝枕をしてもらっているチェも、カメラは淡々と、しかし生々しく映し出す。観客はまるで銃を手にして一緒にジャングルの中を歩いているように、彼の姿を、言葉を、追い続けることになる。彼を出迎える人々の喝采も、頭上を飛び交う銃弾の戦慄も、悲しい最期の瞬間までも。

僕には、とりわけ印象に残っている場面がある。ボリビアの政府軍の追っ手から逃れるため、疲弊し切ったゲリラの同志たちとともに林の中を行軍している時、喘息の発作で弱り切っていたチェの乗る馬が、突然、歩くのをやめてしまう。空腹で疲れ果て、その場から一歩も動けなくなった馬から降りたチェは、無言のまま、急に怒り狂ったかのように馬の手綱を何度も引っぱり、馬を引きずってでも前に進ませようとする。当時のチェが感じていたであろう思うに任せぬやるせなさ、苛立たしさが、ぎくりとするような形で目の前に差し出された気がした。

チェは、あまりにも強い信念に生きた人だった。世界を変えるためには時に銃の引き金を引かなければならないこともあるというその信念を、僕はどうしても肯定することはできない。けれど、彼は、39歳という短い生涯のほとんどすべてを、文字通り命すら投げ出して見ず知らずの人々のために捧げ尽くした。厳然として存在するその事実には、ある種の畏敬の念すら感じる。

「チェ」というのは、彼の生まれ故郷であるアルゼンチンのスペイン語方言で「やあ」という挨拶の言葉で、それを始終耳にしていたキューバの人々が彼につけたあだ名なのだという。今なお多くの人々に愛され続けている彼に、これ以上ふさわしいあだ名はなかったのかもしれない。

浜美雪「師匠噺」

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shishobanashi.jpg学生時代、ごく短い期間だったが、「SWITCH」という雑誌で使い走りのバイトをしていたことがある。その当時、編集部に在籍していた浜美雪さんは古今亭志ん朝師匠の特集に真っ向から取り組んでいた。自ら企画し、取材し、原稿を書き、編集もする。その獅子奮迅の仕事ぶりを目の当たりにして、それまで生ぬるい気分で編集者を志していた僕は「編集をやるなら、文章を書くなら、ここまでやらなきゃだめなんだ」ということを思い知らされた。

あれから15年もの歳月が過ぎた。ラダックから戻ってきた僕は、日本にいない間に、浜さんが二冊の本を上梓していたことを知った。「師匠噺」と「笑いの女神たち コメディエンヌXファイル」。どちらも、「笑芸人」の編集者としてお笑いの世界をずっと見つめ続けてきた浜さんにしか書けない、渾身の作品だと思う。

特に「師匠噺」は、12組の落語家の師弟関係についてのインタビュー集なのだが、ただでさえ取材が難しい題材なのに、丹念に調べ上げた材料を丁寧に組み立て、粋と呼べるほど鮮やかな語り口で描いている。取材対象への愛情と、きちんとした信頼関係がなければ、こんな文章は書けない。この年になって、自分はまだまだヒヨッコだということをまたも思い知らされた(苦笑)。

落語家の師弟というのは不思議なものだ。弟子にしてもらうことは概してとても難しいが、いったん弟子入りすると、師匠は弟子を無償で食べさせ、落語家になるための基本を叩き込み、一人前になるまで心を配る。厳しい修業を通じて、師弟の間には親子かそれ以上の情愛が通うようになる。ともすればすさんでしまいがちな今の日本の社会では希有と呼べるほどの、深い人間関係が築かれているのだ。

特に面白いと思ったのは、落語家の師匠は、自分の弟子に対して落語の稽古をつけたがらない人が多いということ。落語家の多くは、自分の師匠以外の落語家から噺を教えてもらっているのだという。それでも弟子はその師匠に似てくるというのだから面白い。師匠のそばに四六時中一緒にいて、その一挙手一投足を目にし続けることで、弟子は落語の稽古以上に大切なものを師匠から学んでいるのかもしれない。

僕は、文章の書き方を誰かに教わったことはない。文章読本を読んだりしたこともない。教わったことがあるとしたら、15年前、浜さんから言われたこの言葉だけだ。

「文章を書くということは、自分が伝えたいことは何なのか、それは自分にとって何なのか、とことん突き詰めることだと思う」

この言葉を忘れずにいたから、僕は今日まで、物書きのはしくれとしてやってこれたような気がする。そういう意味では、浜さんは僕にとっての師匠なのだと思う。

bookofillusions.jpgポール・オースターの小説が日本で広く知られるようになったのは、1995年に、彼が脚本を手がけたウェイン・ワン監督の映画「スモーク」が公開されたのがきっかけだった。「スモーク」から派生した「ブルー・イン・ザ・フェイス」や、1998年に公開された「ルル・オン・ザ・ブリッジ」では、オースターは脚本だけでなく監督も務めている(ちなみに「ルル・オン・ザ・ブリッジ」では、当初オースターは友人のヴィム・ヴェンダースに監督を頼むつもりだったらしい)。そうした豊かな映画体験を得た彼が映画をテーマにしたこの「幻影の書」を書くことは、ごく自然な成り行きだった。

飛行機事故で愛する妻と二人の息子を喪った主人公ジンマーは、絶望から逃れるために、六十年近く前に行方不明になったサイレント映画の喜劇役者、ヘクター・マンの短篇映画についての本を書いた。ところが、その本が出版されてしばらく経ったある日、ジンマーの元に、ヘクターの妻と名乗る女性から手紙が届く。ヘクターは生きている、まだ誰も観たことのない長篇映画のフィルムもある、だからヘクターに会いにきてほしい、と。なぜヘクターは、突然ハリウッドから姿を消したのか。なぜヘクターは、誰にも観られることのない映画を撮り続けていたのか――。

オースターという人は、これまでの作品の中でも常に「自己とは何か」というテーマにこだわり続けてきた。過去の登場人物の多くは、たった一人で文章を書くことで自己と向かい合い、しばしば破滅へと陥っていく。「幻影の書」では、ヘクターは誰にも観られることのない映画を撮るという狂気の沙汰としか思えないことをやり続けているが、作中に登場するヘクターの映画「マーティン・フロストの内なる生」は主人公が小説を書くことが重要なモチーフとなっているのだ。ここまでやられると、そのこだわりもあっぱれとしか言いようがない。オースターにとって、文章を書くこと、書くことで自己と向き合うことは、それほどまでに重要な行為なのだろう。

物語自体は、まぎれもなく悲劇だ。登場人物のほとんどは破滅へと向かう。にもかかわらず、この物語には最後に希望が残されている。とことん自己と向き合い続けてきたオースターが、この「幻影の書」で主人公にそうした道を歩ませたことには、彼なりに深い理由があったのではないかと思えてならない。

読んでいて印象に残ったのは、作中に登場するヘクターの映画、特に前述の「マーティン・フロストの内なる生」について描写している部分だ。鮮烈なイメージと緻密なディテールが冴えに冴えた筆致で描かれていて、読んでいると脳裏のスクリーンに映像が投影されているような気がしてくる(ジンマーがそうであったように)。小説の他の部分が物足りなくさえ思えるくらいだ(笑)。

この傑作をものにしたあと、オースターはどこへ向かったのだろうか。邦訳されていない作品は、まだ4作ある。原書を読む根性はないので(苦笑)、おなじみ柴田元幸さんの訳でそれらを読むことができる日が来るのを、気長に待ちたいと思う。

tabisuruchikara.jpg初めて長い一人旅に出たのは、沢木耕太郎の「深夜特急」がまだ完結していない頃のことだった。その後も僕は何かに取り憑かれたかのように幾度となく旅をくりかえすのだが、それはこの作品に少なからず影響されてのことだったというのは否定できない。沢木さんの文章の記憶を異国の地で反芻しながら、時に「ああ、そうだよな」と共感したり、時に「いや、それはちょっと違うんじゃないか」と異を唱えたりしているうちに、僕は少しずつ、自分流の旅の作法を見出していった。

旅する力―深夜特急ノート」は、沢木さんが自身の紀行文の一つの区切りとして手がけた長編エッセイだ。幼い頃の旅の記憶に始まり、旅に出る前の駆け出しのフリーライターだった頃の話、「深夜特急」本編では書かれなかったエピソードなど、沢木さんにとっての「旅」を軸にした文章がぎゅっと凝縮されている。

とりわけ僕が興味を惹かれたのは、ライターとしての沢木さんの「旅」との関わり方についての文章だった。デビュー直後の悪戦苦闘ぶりも(比べるのもおこがましいが)少なからず身につまされたし、「深夜特急」が書かれるまでのプロセスも「そうだったのか」と改めて納得させられるものがあった。旅をすればするほど、書こうとすればするほど、わからないことが増えていく。「わかっているのは、わからないことだけ」。その通りだ。そしてそれは、「旅」を書こうとした者にしか、本当には実感できない。

この本を読み終えてから、自分の中にある「深夜特急」という作品の存在の大きさを改めて痛感した。あまりにも存在が大きすぎて、自分が「旅」について何を書いたところで、沢木さんの本を越えることなどできない、模倣と言われるだけなのだ、と今まで何度思い悩んだことか。それほどまでにあの作品は、僕にとって憧れであり、越えられない壁だった。

でも、今作っている本で、僕はようやく――かれこれ15年がかりで――自分なりの「旅」のささやかな答えを見つけられたような気がしている。そしてそれもまた、「深夜特急」という巨大な存在があったおかげだと思っている。

パワージェットサイクロン

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powerjetcyclone.jpg今の部屋に引っ越してから、新しく掃除機を買った。

僕が掃除機に求めている条件は、ただ二つ。吸引力が強くて、できるだけ安いこと。そんな掃除機を探していたら、アマゾンでツインバードのパワージェットサイクロン150という製品を発見。値段はなんと3582円(!)で、40件以上もあるレビューを読んでみると、吸引力も相当強いらしい。この値段ならハズレでもショックは少ないだろうと、思い切ってポチッとしてみた。

実際に使ってみると、評判通り、吸引力はものすごい。面白いくらいホコリがガンガン吸い込める。使っている時はギュイーンとかなりうるさい音がするのだが、夜中に使うわけでもないので関係ない。スイッチといえば電源のオン・オフだけで、パワー調整すらできない潔さ。そう、掃除機に余計な機能なんていらないのだ。ゴミが吸えりゃいいんだ、吸えりゃ。

世の中、たまにアホみたいな値段で掘り出し物に出会うことがある。

BALMUDA design "Highwire"

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hw900.jpg一日中机に向かってモニタや書類とにらめっこしなければならないという仕事柄、デスクライトには人一倍こだわってきた‥‥と言いたいところだが、つい最近まで使っていたのは、大学生の時に同級生から譲ってもらった、ごくごく普通の蛍光灯スタンド。何度か買い替えようと思ったが、結局20年近く使い続けてしまったのだ。でも、さすがに本体にガタがきて、異音がしたりチラついたりしはじめたので、引越を機にデスクライトも世代交代させることにした。

当初はバイオライトが有力候補だったが、イマイチ納得できないでいる時に行き着いたのが、バルミューダデザインのHighwire。このへんちくりんな形のデスクライトの最大の特徴は、電球や蛍光灯ではなく、4基のPowerLEDを光源にしていること。その光は有害な紫外線や熱の原因となる赤外線を含んでおらず、ちらつくこともない真っ白な明かりを提供してくれる。PowerLEDは非常に長寿命なので、基本的に交換する必要もない。初期費用にさえ目をつぶれば、まさにいいことずくめの光源だ。

Highwireのもう一つの特徴は、コンピュータディスプレイを使用する環境で使うことに最適化されている点。ディスプレイの真上から手元を照らし、輻射光でディスプレイとその周囲を明るくするという考え方だ。実際に使ってみると、なるほど、ディスプレイの周囲をぽっかりと明るく照らしてくれて、とても見やすい。ノートブックコンピュータ向けの一番小さいモデルの場合、机の上の直径1メートルくらいの範囲を照射してくれる。左右にわしゃっと資料を広げたりするとちょっと狭く感じられることもあるが、普通にMacを使っている分には何の問題もない。ただ、ヘッド部は軸に合わせて回転するが、支持パイプが動くわけではないので、可動アーム式のデスクライトほどの自由度はないのは弱点か。

ヘッド部とベース部はバルミューダデザインお得意のアルミニウムからの削り出し。このHighwireも含めて同社の製品は、多かれ少なかれアップルの製品デザインにインスパイアされているものが非常に多い。いちMacユーザーとしても、両者の質感のマッチングには満足している。さて、今度のデスクライトは、何年使い続けられるだろうか‥‥?

Forca Shoulder Pack

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forca.jpg取材の時に使う鞄には、自分なりにいくつかこだわりがある。

・A4サイズの雑誌や書類がそのまま収納できること。ただし、必要以上に大きくないこと。
・両手を自由にしてメモや撮影ができるショルダーバッグスタイルであること。
・iPhoneなどのデジタルガジェットをあまり気を使わずに収納できるポケットがあること。
・カジュアルすぎることなく、でもきちんとデザインされたものであること。

こういった条件を満たしてくれる鞄は、ありそうで実はなかなかない。無駄に大きすぎたり、ポケットの配置が使いにくかったり、デザインがイマイチだったり‥‥。そんな中、今までで一番自分の好みと一致したのは、Forca Shoulder PackEasternShapeが企画・開発し、アルティザン・アンド・アーティストが製造した、正真正銘メイド・イン・ジャパンのショルダーバッグだ。

この鞄を最初に購入したのは4年前。友人の国立商店の遠藤さんが、「これ、くやしいくらいによくできた鞄なんですよ」とおすすめしてくれたのがきっかけだった。使いはじめてみると、なるほどよくできている。大きさはまさにA4ジャストサイズで、肩にかけていてもとても軽い。パイル生地で内張りされたガジェットポケットは便利だし、革やナイロンやメッシュ素材などを適材適所に配置することで、シンプルでありながら機能的なデザインになっている。とても、ダサい鞄の代名詞である縦型ショルダーバッグの仲間とは思えない(笑)。僕はすっかり惚れ込んでしまって、仕事にプライベートにとガシガシ使いまくった。

ただ、この鞄にも弱点はあった。それは耐久性だ。底部を中心に使われていた樹脂コーティング生地は意外に破れやすく、角の部分から擦り切れてしまう。背面ポケットに使われていたメッシュ生地も、身体に当たっているうちに傷んでしまった。それでもだましだまし使っていたが、さすがに取材に使うにはいささかみすぼらしくなってきたので、次の鞄はどうしよう‥‥と悩んでいた。

と、そこへ飛び込んできたのが、このForca Shoulder Packがリニューアルされたというニュースだ。聞くと、基本的なデザインはそのままに、課題であった耐久性を向上させるための素材の見直しと細部のデザインの改良を行っているという。しばらく逡巡していたのだが、あの使い心地が忘れられず、リニューアル版のレザートップをまたしても購入してしまった。

生まれ変わったForca Shoulder Packを手にしてまず感じたのは、ぐっとよくなった生地の質感。メインで使われている高密度ナイロンや樹脂コーティング生地はハリがあって美しい。ポケットの配置もさらに使いやすくなり、かゆいところに手が届く仕上がりになっている。何より、耐久性が向上したというのがうれしい。より愛着を持って長く付き合うことができるのだから。

またしばらくは、この鞄が僕の相棒を務めてくれることになると思う。

Born-into-brothels.jpgカルカッタは、混沌の街だ。路上にひしめくアンバサダーやバスの合間をぬって、黙々とリクシャーを牽く人夫たち。思わず目を背けたくなるほど痛々しい姿でうずくまる物乞いたち。背中に赤い染料で印をつけられた羊の群れが大通りを闊歩し、慈愛の人マザー・テレサが作り上げた死を待つ人の家の隣では、ヤギが毎日首を刎ねられてカーリー女神の生け贄に捧げられる。1300万人もの人々が暮らすこの大都会は、善くも悪くも、人間のありとあらゆる営みの坩堝と化している。

ドキュメンタリー映画「未来を写した子どもたち」の舞台は、そんなカルカッタの街の中でももっとも暗く、悲惨で、希望の欠片も見つけられない場所――売春窟だ。

女性フォト・ジャーナリストのザナ・ブリスキは、この売春窟の取材に訪れた際、そこで暮らす子供たちと出会う。彼らに未来の選択肢は与えられていない。女の子たちは年端もいかないうちに客を取らされ、男の子たちは闇商売に身をやつすか、盗みを働くようになってしまう。

子供たちの境遇に心を痛めたザナは、彼らにカメラを与え、写真教室を開くことにした。人間のもっとも醜い部分を目の当たりにしながら育ってきた子供たちは、時に鋭く、時に優しい感性で、さまざまな被写体を切り取っていく。彼らを売春窟から救い出して寄宿学校に入れるためにザナが奔走する一方で、子供たちが撮った作品は次第に世間の注目を集めはじめ、やがて、思いがけない道が開ける。だが、現実は決して甘くはなく――。

観終わって感じたのは、この映画はまぎれもなく、希望とは何かを問いかけた映画だったのではないかということ。スクリーンには、やりきれないほど悲しい人々の姿がこれでもかと映し出されるが、その中でピョンピョン跳ね回りながらカメラのシャッターを押す子供たちの笑顔が、すべてを語っていたように思う。一台のカメラが、これほどまでに希望を与えてくれるのだ、と。

白状してしまうと、ラダックから日本に帰ってきて以来、僕はほとんどカメラを触っていなかった。これから先、写真に対してどんな風に関わっていけばいいのか、自分の中に迷いのようなものがあったのだ。でも、この映画を観て、何となく吹っ切れたような気がする。撮りたいと思ったもの、伝えたいと思ったことを、相手の懐にポンと飛び込んで、思うがままに撮ればいい。そうして撮った写真にこそ、人の心を動かす力が宿るのではないかと思う。

エンドロールが終わった後に映し出された最後のワンシーンが、いつまでも胸に残った。

Into-the-wild.jpgショーン・ペンは、特に熱心に追いかけていたわけではないけれど、気がついてみると意外と好きだったという映画人の一人だ。「シーズ・ソー・ラヴリー」や「ギター弾きの恋」といった主演作は今でも好きだし、監督作では「クロッシング・ガード」のやりきれないほどの痛ましさが印象に残っている。そんな彼のひさびさの監督作。

イントゥ・ザ・ワイルド」は、放浪の果てにアラスカの荒野で謎の死を遂げた青年の軌跡を追ったノンフィクション「荒野へ」を映画化したものだ。裕福だが複雑な内情を抱えた家庭に生まれた青年クリスは、親や周囲の環境への反発から、すべてを捨てて家を飛び出し、あてどない放浪の旅に出る。時に傷つき、打ちのめされながらも、いくつもの出会いと別れを重ねるうちに、クリスの中で何かが変わりはじめる。彼は旅を通じて、その手で直に「世界」に触れていたのだ。

そんな放浪の日々の中でも、クリスの心には一つの目的地があった。北へ――アラスカの荒野へ。2年間の旅の後、彼はついにその終点に向かう。銃とわずかな食糧と、食べられる野草を見分けるためのペーパーバックの植物図鑑だけを携えて。荒野に打ち捨てられたおんぼろバスを寝床に、雄大で苛酷な自然の中で悪戦苦闘しながら暮らすクリス。やがて帰還を決意した彼に、思いがけない悲劇が降りかかる――。

観終わった後、僕は何ともいえない、いたたまれない気持になった。正直、人ごととはとても思えなかったのだ。

彼と同じくらいの年の頃、僕もすべてを放り出して長い旅に出たことがある。それは前向きな動機からではなく、大学とか、就職とか、挫折してあきらめた目標とか、周囲との人間関係とか、そんなわずらわしいことすべてから逃げ出したかったからだった。たった一人で異国をさまよい、だまされたり、ひどい目にあったりしながら、大勢の人々と出会っていくうちに、僕はいかに自分が「世界」について何も知らなかったかということを知った。日本の社会の尺度から見れば回り道以外の何物でもないが、それは、僕が今の自分に辿り着くためには、避けて通ることのできなかった道だったのかもしれない。

確かにクリスという青年は、青いし、甘ちゃんだし、向こう見ずなところもあったかもしれない(同い年の頃の僕に比べれば全然ましだが)。でも、家族との断絶も、放浪を重ねた末にアラスカに向かったことも、彼にとっては避けて通ることのできなかった道だったのだと思う。そして彼は、彼なりに答えらしきものを見つけて、帰還しようとしていた。だからなおさら、結末が心に痛い。

旅する者の足元には、時々、暗い穴がぽっかりと開いている。僕だって一歩間違えば、ついこの間の冬のチャダルで、氷の川に飲み込まれてしまっていたかもしれない。そう思うと、本当に身につまされる。

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  • Author : yama_taka
  • フリーランスの編集/ライター/フォトグラファー。旅と写真と自転車をこよなく愛する、生まれながらの根無し草。
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  • ラダックなどへの旅の中で撮影した写真のポートフォリオ。
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