バンクーバー五輪のニュースを見ていて、ふと思ったことを、とりとめもなく。
人には、いろいろな生き方がある。五輪に出場しているのは、頂点を目指す生き方を選んだ人たち。生活のほとんどを自身の鍛錬に捧げ、時にさまざまなものを犠牲にしながら、少しでも上を目指すという生き方。それには、天が与えた才能と、途方もない努力と、いくらかの幸運が必要になる。
でも、頂点を目指す生き方を選んだ人の多くは、頂点に達することができずに終わる。どこかの時点で敗れ、何らかの形で自分の限界を知ることになる。血のにじむような思いで積み重ねてきた努力が、まったく報われずに無に帰することも珍しくない。
ほとんどの人が頂点に立てないのなら、頂点を目指すという生き方は、無意味なことなのだろうか?
最近は、努力していればいつか報われる、と思っている人が、だんだん少なくなっているのだという。がんばっても、その先にはいいことは待っていない。それよりも、自分が属している世界が快適であればいい。無理に上を目指さなければ、痛い思いをすることもない、と。
僕自身は、頂点というか、上を目指すことだけがすべてではない、と思っている。でも、今そう思えるのは、かつて自分自身が、上を目指す生き方をしようとして、何年間も必死に努力を積み重ねたことがあったから。そこで徹底的に打ちのめされ、自分の無力さを思い知った経験があったから。そしてその経験があったからこそ、理解できたこともあったから。
何かを成し遂げるということ、そのために努力を積み重ねるということは、受け止めてくれる人がいてこそ成り立つものだ。努力の過程を支えてくれる人や、その結果を見て心を動かされたりする人がいなければ、それはただの自己満足でしかない。周囲の人々との関係があってこそ、何かを目指すこと、そのために努力することが意味を持つようになる。
五輪に出場している選手たちは、たぶんそのことを一番よくわかっている。たくさんの人の支えがあるから、彼らは全力で頂点を目指す戦いをすることができる。目標を達成できた人も、できなかった人も、その喜びや悔しさは、支えてくれた人たちと分かち合うことができる。きっと、それが一番大切で、意味のあることなのだ。
スポーツの世界に限らず、もっと小さなことでも、何かの目標に対してありったけの努力をして、全力で戦った経験がある人だけが、「頂点に立つことだけがすべてではない」ということの意味を理解できるのではないだろうか。少なくとも、痛い思いをすることが怖くて、全力で戦ったことがない人には、その本当の意味はわからないと思う。
