はじめに

一九九二年の春から夏にかけて、僕は日本を離れて四カ月間ほど旅をした。初めての海外一人旅だった。中国まで船で渡り、シベリア鉄道に乗ってロシアへ。その後ヨーロッパに抜け、ユーレイルユースパスを使って夜行列車を宿代わりにしながら、あちこちの国を回った。ここに収めた一連の文章は、その旅の中で起こった出来事について書いたものだ。

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記憶

小さい頃、僕の家に外人が来たことがあった。

灰色のあごひげを生やした、がっしりした男だったと思う。

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泥海

舷側の窓から外を見ると、海の色が変わっていた。

階段を駆け上がって、後部甲板に出た。

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トロリー・バスはなかなか前に進まない。

メーデーは昨日だったのに、大通りはひどく混雑して、車道にまで人があふれていた。

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道づれ

僕は切符売場の仕切のガラスを、手のひらで叩いて怒鳴った。

どうかしている。

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先生

先生の部屋は、土壁に囲まれた長屋の中にあった。

緑色の木の扉をあけると、細い廊下の横に、石炭をくべるかまどがついている。天井の低い部屋の中にベッドがふたつ。机の上に何冊かの本と辞書。部屋の隅に小さなテレビと室内アンテナ。

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ひまわり

ひまわりの種の殻が靴に当たった。女の子の黒い目が、一瞬、僕のほうを見た。

列車は土漠の中を走っていた。

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バイバイ・ストリート

夕方、ひとりで散歩に出かけた。

道の両側には、日干しレンガの家が並んでいる。どの家の軒先もぶどう棚でおおわれている。実が熟すにはまだ早いが、それでもほのかに甘い匂いがする。

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みかん

窓の外を見ていると、火星に軟着陸したような気分になってくる。

列車は昨日の真夜中に烏魯木斉を出発し、あさっての夜、北京に着く。その間にやることといえば、食うか、寝るか、本を読むか、外の景色を眺めるくらいしかない。

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居候

夜の十二時を過ぎている。部屋の主は、まだ帰ってこない。

鉄筋コンクリート、タイル張りの床の建物の二階。何の物音もしない。

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クレイジー・エクスプレス(1)

北京駅、朝の七時。モスクワ行の列車は七時四〇分に出る。

人が多い。荷物も多い。

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クレイジー・エクスプレス(2)

国境に着いたのは真夜中だった。

列車は引きこみ線から車庫の中に入った。モンゴルは中国よりも線路が広いので、ここで車輪の幅を変えなければならない。

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クレイジー・エクスプレス(3)

暁の空に、細い残月が見える。

寒い。窓の外の軍人は、オーバーコートを着ている。

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クレイジー・エクスプレス(4)

ひさしぶりに夢を見た。

何の夢だったか、憶えていない。懐かしい人に会っていたような気がした。

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老婆

だだっ広いモスクワの街を、あてもなく、ただ歩いていた。

川に沿って、上り坂が続いている。両端が車道、真ん中は幅の広い並木道のようになっていて、十数メートルおきに小さな段がついている。

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トラブル

列車の通路の窓は、上から二〇センチほどしか開かない。その上に両肘をのせて、外を見ている。

空はほのかな茜色に染まり、夕暮れの薄闇があたりを包んでいる。

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東奔西走

「あなた、どこから来たの?」と、ホテルの二階で、誰かが僕を呼び止めた。

すらりと手足の長い、白い服にサングラスをかけた女が立っていた。

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地球は回る

駅の構内の一角に、行列ができている。一番うしろにいる若い男に訊いた。

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日曜日

ブロンドの髪の女の子が、目の前を通りすぎていく。黒いタンクトップの脇から、白い胸のふくらみが見える。

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ヘンリー

「ヘンリー」

床に坐りながら僕がそう呼ぶと、とてとて、とヘンリーはカーペットの上を走ってきて、僕の膝に前足をのせた。

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まずいことになった、と思った。

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丘の上で

「失敗した」と僕は言った。

「昨日の晩、ジーンズの洗濯なんかするんじゃなかった」

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すすり泣きの声が聞こえる。

ふりかえると、うしろの長椅子で、若い女が男の肩に顔を埋めて泣いている。

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サムシング

夜のテラスの向こうから、崔が現れた。片手にビールのグラスを持っている。

「よお」崔が言った。「何やってんだ?」

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写真

岬の突端にある公園は、この街で僕が一番好きな場所だった。

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独楽

独楽を売っている男の子がいた。紐のついた独楽を回しながら、うつむいて、道端を歩いていた。

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その気になれば

目をあけると、救命ボートの船底が頭の上にあった。

まだ、眠い。

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危ない夜行列車

発車まで三〇分近くある。客室にいるのは、僕ひとりだ。

昼間の強烈な暑さが、まだ空気の中によどんでいる。じっとしていても、皮膚の表面から水分が抜けていくような気がする。

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結婚する男

ローマの街の中でも、このテルミニ駅は何かと評判がよくない。たちの悪いジプシーや、麻薬のブローカーが夜な夜な徘徊しているという。

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夏の日

彼女は、赤い帽子を横向きにしてかぶっている。

「いいね、それ」

「そう?」

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丘の上の小径を歩いていると、ぱらぱらっと空から何かが降ってきた。

古城の中にある教会から、拍手と喚声が聞こえた。

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理由

途中で次々に乗客が降りて、海辺の小さな村にさしかかる頃、バスの中に残っているのは僕だけになった。

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夕闇

ハイド・パークの芝生の上には、ところどころに枯れ葉が落ちていた。

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